カテゴリー「時事的なこととか、政治的なこと」の30件の記事

2011年6月 3日 (金)

「100,000年後の安全」をレヴューしてみた

先日見た映画「100,000年後の安全」(http://www.uplink.co.jp/100000/)の感想をチラッと。

 これは、フィンランドで建設中の放射性廃棄物の永久地層処分場についてのドキュメンタリー。美しい映像や音楽をバックに、このプロジェクトの関係者へのインタビューなどが紹介される。

 この計画は、原子力発電によって発生した放射性廃棄物を、無害な状態になるまで要塞のような地下貯蔵施設に埋蔵して閉じ込めておく、というもの。こう書くとそんなに難しい話でもなさそうに聞こえるかもしれないが、貯蔵される放射性廃棄物が無害になるまでの期間はおよそ10万年。「オンカロ」と呼ばれる埋蔵施設は、10万年後まで地中深くに残ることを目的として建設されているのである。

 この映画を見て観客がまず考えさせられるのは、「10万年」という圧倒的な時間の長さである。イエスが十字架にかけられてから現在まで2000年ぐらい。現在から10万年遡れば、人類の祖先は、まだネアンデルタール人の段階。人間の歴史のスパンで見ても、あまりに桁が違う。10万年後まで何の問題もなく地中に埋めておくということは果たして可能なのか。

 この計画は、もちろん国の承認を経ているのだが、これまで世界中で決定された政策で、「10万年後」のことまで考えて決められたことなど、たぶん、いや間違いなく、ない。なんでこんな計画が実行されてしまうんだろうか。よくわからない。

 計画への疑問は絶えない。10万年も壊れずに残る建造物を作ること自体が可能なのか。天変地異による影響は大丈夫なのか。そもそも10万年後まで人類は存在するのか。今とは異なった姿の「人類のようなもの」がいるのかもしれない。彼らは地中に埋められた施設の存在に気づいてしまわないだろうか。10万年後の人類に誤ってこの場所を開けないように示すことは可能なのか。その際に放射能の危険を示す文字や標識は効果をなすか。危険だと伝えることができても、好奇心をおさえられないものはやはり施設を掘り返すかもしれない……

 全てが推測の域を出ないが、10万年の間に何があるか予測の限界を超えている以上、可能性は無限だ。その問いは、単に技術的な話だけではなく、哲学的ともいえる深遠なところまでたどり着いてしまう(インタビューを受けていた関係者の中に神学の研究者もいた)。

 個人的にはこの映画を実際に見てから、この映画について思い違いというか勘違いをしていたことに、二つ気づいたことがある。

 一つは、これは「原発についての映画」ではないということだ。もちろん、広い意味では原発(というか原子力)に関するものではあるのだが、焦点は「放射性廃棄物をどうするか」「この計画の是非について考える」ということ。

 本編の中で出てきたインタビューの言葉で印象的だったのは、(うろおぼえだけど)「原発に賛成だろうが反対だろうが考えないといけない問題」というもの。現在、地球上には放射性廃棄物が20万から30万トンあり、その処理は誰かが何らかの方法で必ずやらないといけない。実際問題として、何とかしないといけないのだ。「賛成」あるいは「反対」と口にすることで、思考停止していればいいわけではない。これは空想上の話ではない。

 もうひとつ気づいたことは、(上記とも少し関連するが)この映画は「原発の危険性を告発する」とか「原発反対」とかいうメッセージを観客に伝える類の映画ではないということだ。むしろ、このような計画があるということを示した上で、是非については観客ひとりひとりが考え、判断することを促しているような気がした。

 たとえば、細部の話で恐縮だが、個人的になるほどと思ったことが一つある。それは映画の序盤で、KraftwerkのRadioactivityという曲が流れていたことについて。

 (前に反原発ソングを紹介したときにも書いたが)、この曲にはバージョンがいくつかある。この曲が発表された当初は、放射能についてあまり中身のないことを歌った、無機質な曲として登場したが、チェルノブイリ事故などが起きて原発問題に対する関心が高まるのと合わせて、「Stop Radioactivity」などの歌詞が追加された反原子力ソングとしてアレンジされた。劇中で流れていたのは、初期のバージョンで、原発に否定的なメッセージは特に込められていない方だった。あえてこちらのバージョンを流したのは、映画全体で「反-原子力」といったメッセージを押し出したくなかったからだろう。そこに制作の意図を感じた。

 もちろん、そうだからといって原子力の現状を肯定しているわけでもない。原発を使い続ければ、こうした処理に困る「核のゴミ」が出続けるのは明白だし、この埋蔵計画はあまりに無責任という印象はいなめない(誰も責任を取れないし、うまくいく保証がないのだから)。それを手放しで「賛成」とは誰にも言えないだろう(裸の王様と対峙した素直な子どもだったら、「そんなの無理じゃないか」と叫ぶところだろう)。

 この映画を見て、そんなことを感じた。

 これはフィンランドが舞台となった話だが、使用済み核燃料の処理に困っているのは日本でも変わらない。たとえば北海道の幌延(稚内の近く)では、高レベル放射性廃棄物の最終処分場建設が目論まれた過去があり、現在は「放射性廃棄物は実際に持ち込まない」「研究後は穴を埋め立てる」などの協定のもとに、深地層研究施設が幌延の町に建てられている(処分場の誘致に反対している人々は、「なし崩し的に処分場が作られてしまうのではないか」と危惧している)。

参考→幌延町 幌延深地層研究センター【概要】 

    朝日新聞「防災を問う」第2部 原発 (幌延の話を取り上げている)

 放射性廃棄物の処理をどう考えるのか、というのは原子力の問題をどういう立場を取るのかを考える上でも、避けては通れない問題だろう。まず現実を感じるために、多くの人に見てもらいたいと思える映画だった。

(↑なんかカッコつけたこと書いちゃったけど、映像がすごくキレイでそれだけでも見る価値ありなんじゃないかなぁと個人的には思った。以上)

☆おまけ

札幌では、狸小路にあるシアターキノで上映中で、来週火曜日までやってるそうです金曜日(10日)まで延長したとのこと→一日ニ回上映。時間のある人はどうぞ。

シアターキノ  http://theaterkino.net/

公式サイト http://www.uplink.co.jp/100000/

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2011年5月22日 (日)

反原発ソングs

久しぶりの更新だけど、そんなことには特に触れず、今回はなんとなく反原発のメッセージを込めた曲を色々と紹介してみようかなと思ったので、動画を載せてみる。

今回の事故のことでもわかるように、原発というのはすさまじいタブー項目としてメディアでも扱われてるから、原発批判ソングってフツーのミュージシャンはまず歌わない(歌えない)みたい。

でも、ちらほら根性のある人たちによって曲が作られてたりするので、そういうのをちょっとだけまとめてみた。

☆ランキン&ダブアイヌバンド「誰にも見えない、匂いもない 2011」

日本語レゲエDJの父(?)、ランキンタクシーさんの曲。
今回は、20年くらい前に発表した曲をダブアイヌバンドと一緒に復活させた。ノリもいいし、皮肉もきいてるし、時事性が高くて素敵。
ランキンさんは、今回の反原発デモはもちろん、東京のマリファナマーチ(大麻の非犯罪化を求めて行われるデモ)にも参加したりしてるし、ガッツのある人ですね。

☆RCサクセション サマータイムブルース~LOVE ME TENDER

忌野清志郎率いるRCサクセションが1988年に発売されたカバーアルバム「COVERS」に収録されている二曲。このアルバムは、洋楽ロックの 名曲をRCがカバーしたアルバムなんだけど、なぜかオリジナルの歌詞ではなく、キヨシローが作詞した「政治的な」日本語歌詞で歌われている

このアルバムは、発売しようとした当初、所属するレコード会社からストップがかかって発売できなかった。会社側は、「素晴らしすぎて発売できない んです」とかわけのわからん言葉をぬかしたのだが、もちろん納得できないキヨシローは、「じゃあそうやって発表しろ!」と言ったため、発売中止の告知広告 には、「素晴らしすぎて発売できません」との文字が躍った。

ちなみに、発売が中止された理由は直接は発表されてないけど、事情はすっごく分かりやすい。このアルバムを発売中止にしたレコード会社は、東芝の 子会社(当時)である東芝EMIなのだけど、ご存知の通り東芝は(日立、三菱と並んで)原発を作っている「プラントメーカー」。子会社EMIから反原発ソ ングを発売されて批判されるのを避けるために、子会社に圧力をかけたというのが定説。

いやー大人の事情はきたなくてやだねw

ちなみにキヨシローはこの騒動の後で、「原発反対って言わなきゃいいんだろ?!」ということで、「原発賛成音頭」というシニカルな曲を歌ったりしてます。クール!

☆斉藤和義 ずっとウソだった

忌野清志郎をリスペクトしている(らしい)斉藤和義は、自身のヒットソング「ずっと好きだった」を替え歌にして、反原発ソング「ずっとウソだっ た」をネット上で発表。聞けば分かるけど、政府や電力会社のウソ(「安全です」)を批判している。所属事務所は、「本人の意思に基づいて発表したわけでは ない。うちわで撮影したものが出回ってしまっただけ」とか意味不明な言い訳をして火消しにかかったんだけど、こんな動画が投稿されたらネット上では祭りが 起きるに決まっていてw、あっという間に拡散。今では普通にようつべで見れるわけである。

これも悪くない曲だけど、「騙された」という表現はちょっと無邪気すぎる気がしないでもない。推進したい連中が騙そうとしてたのは事実だけど、う さんくさい「安全神話」によりかかったのは消費者の側でもあるわけで。「騙される側の責任」てのもあるよね。騙されてない人もたくさんいたわけだし。

☆Kraftwerk - Radioactivity

ドイツの電子音楽グループ、クラフトワークの曲。
クラフトワークといえば、「ロボット」やら「鉄道」やらをテーマに曲をつくっている「テクノロジーフェチ」みたいな人達なんだけど(ていうか彼ら 自身の愛称が「ロボット」だしw)、この曲はそんなテクノロジーの(ある種の)先端である原子力をテーマにしている。Radioactivityって「放射能」だしね。

この曲が最初に発表された時は、別に反原子力ソングではなかったんだけど、80年代以降は原子力関連の地名(「チェルノブイリ」、米スリーマイル 島のある「ハリスバーグ」、「ヒロシマ」、英の再処理工場「セラフィールド」)や、「STOP Radioactivity」などの歌詞が追加されて歌われるようになった。やっぱ時代的なもんですかね。

ちなみに、この曲が元々おさめられていたアルバムRadioactivityは、邦題は「放射能」となっていたけど、同時に「ラジオの活動」という意味もあって、アルバム収録曲の半分は、ラジオに関する曲だったってのがちょっと面白いw

―――――

核・原発批判ソングとしては、加藤登紀子の「原発ジプシー」とか、ブルーハーツの「チェルノブイリ」とか、佐野元春の「警告どおり 計画どおり」とか、(個人的にはあんまり好きじゃないんだけどw)最近発表されたECDの曲とか、けっこう色々あるけど、今日は割愛!
なんかオススメの曲などあったら、誰か教えてください。

☆おまけ


 

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2010年9月25日 (土)

宮下公園の行政代執行

 予告どおり、宮下公園への行政代執行が行われ、支援者や野宿者の荷物などが一斉に撤去された。「みんなの宮下公園を守る会」など、「NIKE化」に反対する支援者は渋谷区が作ったバリケードの前で抗議行動を行ったが、あえなく排除され、作業は完了してしまった。その映像があるので見ていただきたい。

↑行政代執行に対する座り込み・抗議行動の記録映像。

 この映像のもっともグロテスクなところは、排除の瞬間にある。そこでは、警察だけでなく、民間警備会社の人間が出動し、「NIKE化」に反対する人々を排除していることである。公園という公的な空間が、誰にも開かれた場所から、まさに私企業の私有地へと変わろうとする象徴的な瞬間をとらえた映像である。

 前回の記事を書いて、もう少し自分でも掘り下げてこの問題について考えてみようと思ったので、また期をあらためてエントリーを書きたいと思った。
26日のデモには行ってみたいと思う。

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2010年9月23日 (木)

宮下公園の封鎖について

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 東京の渋谷に宮下公園というちっぽけな公園があるのだけど、そこが渋谷区によって閉鎖されてしまって問題になっている。今日は、このことについて取り上げてみたい。23日には大規模な抗議行動があるので、ギリギリの掲載だけど、ともかく載せてみる。以下、愛媛に住んでる友人・はるかさんのブログから転載。

東京都渋谷区にある宮下公園。
9月15日朝6時半頃、公園課、作業員、警備員、警察官など約200名が、宮下公園の9箇所の出入り口をすべて封鎖し、公園で生活している方たちを無理やり公園外に追い出す、ということが行われました。

タイムリーにブログ記事が書けなかったことは反省しきりですが、私はこれは「とんでもないこと」であると思うので、多くの人に事実を知って欲しいとの思いで記事を書きます。

宮下公園については、以前ブログでもちょっと書いたけど(ミクシィだったっけな)、どういう場所なのかもう一度。

宮下公園は、渋谷区にある公園。
2009年の8月に、渋谷区とナイキジャパンが「ネーミングライツ協定」を結びました。
これによって宮下公園は「宮下ナイキパーク」に名前が変わり、公園内は全面的に改修、スポーツ公園となることになりました。
渋谷区は「市民の要望を受けての計画である」としていますが、実はこれは一部の議員の働きかけで提出されたものであり、賛同署名はナイキの関連企業が集めたものであったことが後に明らかになっています。
また、宮下公園には、野宿生活をしている人たちがいます。
もしも改修が始まり、工事が行われるようになったら、この人たちは一体どこで生活すればよいのでしょうか。
2009年の7月に、渋谷区公園課の職員が、説明会で「宮下公園の工事にあたり、公園はフェンスで封鎖する。住んでいる人たちはどうなっても知らない」と発言しています。
この動きには多くの人が反対の意を示しています。野宿者支援の団体や、宮下公園を愛するアーティスト(宮下公園アーティスト・イン・レジデンス)などです。
反対の為の様々なイベントやアクションによって、現在まで工事は開始されないままでした。

しかし、15日早朝、公園課、警察官などが、いきなり権力を使っての強硬手段に出たのです。
現在も入り口は封鎖されたままで、多くの人たちが様々なアクションを起こして反対の意をとなえています。

15日の現場映像はこちら⇒http://www.ourplanet-tv.org/?q=node/632

どんなことがあっても、権力による強硬手段というのはとられてはいけない。
ひとつひとつの小さな力が集まって意見を表明しているのに、それを権力で潰すなんて。
とんだ暴力国家ですね。
公園で寝泊まりしている人たちを見殺しにするような今回の行動は、絶対に許されることではありません。
人の命をなんだと思ってるんだ。

******

 それから、「ナイキ化」に反対している人の意見として、シンプルを示したものとしてシンプルで分かりやすいのは、みんなの宮下公園をナイキ化計画から守る会の以下の声明(09年の秋に発表されたもの)。


「宮下NIKEパーク」の命名権契約と改造工事の撤回を求める共同声明

2009年8月27日、渋谷区長とナイキジャパン社長の間で区立宮下公園を「宮下NIKEパーク」とする命名権売却の調印式が非公開で行われ、9月1日には渋谷区報に完成予想図が掲載されました。工事期間は9月~2010年4月とされ、十分な説明がなされないまま、公園の作り替えが行われようとしています。私たちは、この計画に関して主に4つの理由から撤回を求めます。

(1)宮下公園の公共的な価値を奪う計画内容
今回の改造工事では公園内に新たに有料のスケートボード・ロッククライミングなどの施設を設け、公園名が「宮下NIKEパーク」に変わります。すでにできているフットサルコートを含めると、公園の大部分をナイキ商品販促のための施設が占めることになり、実質的に利用者はスポーツ施設に関心のある人、つまりナイキジャパン社の潜在的顧客に限られます。本来、多面的な機能をもち老若男女が消費せずに憩える「公」園の価値が奪われ、商売を優先する一企業の意のままに変質されてしまいます。

(2)民主主義的な手続きを無視したずさんなプロセス
この計画は単なる命名権契約の範囲を大きく逸脱し、公園の中身の改造にも踏み込んだものです。にもかかわらず、渋谷区政はこの1年間、基本プランの公開を行なわず、市民からの意見の募集もせず、驚くべきことに区議会での議決すら経ずに区長と一部の議員のトップダウンで計画を実行に移しました。公募や競争入札が行われておらず、数ある企業の中からナイキジャパン社が選ばれた経緯についても情報の公開を拒んでいます。

(3)野宿を強いられる人々の追い出し
現在、宮下公園で野宿を強いられている約30名は、ナイキ化工事を理由に住まいを奪われようとしています。ナイキジャパン社・渋谷区とも、これらの問題について十分な説明や対応策を提示しておらず、当事者は不安を感じています。
昨年以降の世界的な経済危機のもと、仕事・住まいを失う人々が大量に生み出されており、東京都下の炊き出しには、前年を大きく越える数の人々が集まっています。行政窓口はこの事態に対応できていないにもかかわらず、都内各地で炊き出しをつぶし、同じ渋谷区では区役所駐車場で夜を過ごす約40名を10月にも締め出す計画が進められています。このような状況のもとで宮下公園を含めた公共空間は、経済的・社会的な排除を受ける流動的貧困層の避難場所としての機能を実質的に果たしています。公園から野宿者を追い出すことは、直面する当事者の問題だけにとどまらず、仕事・住まいを失ったすべての人々の生命を著しく危険にさらす行為です。

(4)グローバリゼーションの典型としてのナイキ化計画
いま、ナイキジャパン社が宮下公園で行っているのは、公園の社会的、地域的、倫理的な次元を無視し、公共空間を、制限なく商品を販売するための場として意のままにすることです。規制緩和のなかで、議会での議論や情報公開などの正当な手続きが省略され、貧者の排除が強行されます。この、地球のすべての空間を市場原理に従わせ、あらゆる活動を市場と商品に変換しようという動きは、宮下公園だけでなく日本や世界各地で進行しています。一握りの多国籍企業による社会全体の再編であるグローバリゼーションの進行、このような動きに私たちは反対します。

 と、以上の内容で、「宮下公園で何が起こっているのか」ということの概要が分かっていただけたと思う。早い話が、渋谷区とナイキが勝手に市民の公園を奪い取り、貧乏人を排除し、金儲けの場所にしようとしている、ということだ。

 この封鎖が行われてからの状況は本当に日々ものすごい勢いで動きが起こっており、僕も十分には把握できていない。行政側は、強制的に荷物などを撤去し排除するための「行政代執行」を行うことを決定、対する「NIKE化」反対派は、渋谷区側の対応の不当性などに抗して、訴訟を起こすことを決定(24日に提訴予定)。有識者が反対の声明を出したりと、予断を許さない状況になっている。

 僕としては、典型的な多国籍<搾取>企業のナイキなどという企業の広告のために公園が潰されてしまうということに、本当に納得いかない気持ちを持っている。ナイキなどというのは、児童労働などの搾取問題で、海外では大規模な不買行動などが積極的に起こされている企業である。

 ちなみにこういう議論になると、すぐ「野宿者が邪魔・危険・臭いのだから、排除は仕方ない」などというヘイトクライムのような発言が飛び出るけれど、それを生み出しているような構造的な問題点を指摘しないで、全てを個人の問題に帰すような論法は退けないといけない。誰のせいで貧富の格差が広がり、誰のせいで路上で生活しなければいけない者が生み出されているのか、その責任者を突き止める必要がある。

 また、「野宿者だって別に公園に住み続けたいわけではないのだから、反対派の主張は変だ」という人もいるかもしれない。確かに、当事者の望むことは、安定した「居場所」での生活だろうから、公園生活を長引かせることが目的であるかのような言説のみを主張すれば、それは論点がずれているかと言われても仕方ない。だが、渋谷区・ナイキのやろうとしていることは、「代替案のない排除」でしかない。もし「当事者の自立」などと言うのであれば、否応なく野宿を強いられる人のために十分なセーフティネットなどを用意し、そもそも野宿に陥らないで住むような制度構築をするのが、行政の義務ではないか。排除が先に来ることを正当化する理由はどこにもない。

 たぶん、今回の排除は横浜でのAPEC開催に先駆けての排除的意味合いもあるんだろうなと思う。国際的な会議やイベントの際には、公園から野宿者が排除されたことが幾度となくある。それが今回も繰り返されるのかと思うと、全くやるせない気持ちになる。

 とにかく、いま渋谷ではそういうことが問題になっている。上で触れられているので改めて指摘するまでもないが、重要なのは、これは必ずしも渋谷区・ナイキ・野宿者・渋谷市民・アクティヴィストなど、そこに直接関わる人間のみの問題では決して無いということである。公共空間はいかにあるべきか、その問いがあらゆる人に対して投げかけられているのである。

フェンス封鎖に反撃!!9月23日緊急!1時だヨ!全員集合!!、9月26日抗議デモ

集合場所 宮下公園明治通り沿いの大階段
(場所が変更の場合は、現地でアナウンスします。)
時間 午後1時
*「1000人大包囲行動」は名称を変更しました。
*内容その他の追加訂正情報はブログにアップするので注目ください。
*ビラをつくろう!思い思いのビラをつくって来てください。当日に印刷の手伝いも出来ます。(migrantblacky@gmail.comまで電話番号を添えてもらえれば折り返し連絡します。)
*服装やコスチュームでのアピールも大歓迎。
*今回の行動中に、嫌なこと、困ったこと、気になることがあれば、スタッフに声をかけてください。また、行動から一時的に離れたい場合は、セーファーブースをご利用ください。
*各種メディアが、行動の撮影を行います。お手数ですが、自分が特定されるのを避けたい方は、変装など各自での工夫をよろしくお願いします。また、撮影について気になる方は、スタッフに声をかけてください。
*取材の方は、主催を通してから行ってください。

宮下公園の「ナイキ化」計画については、それを取り巻く人々へのインタビューなどをまとめた秀逸なドキュメンタリー映像があり、この問題を理解する手助けとなるので、オススメ↓(youtube版だと#7まである)



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2010年8月26日 (木)

ようこそAPEC

 今月あたまぐらいの記事、今さらだけど、やっぱりろくでもないので載せておく。

ツイッター警戒せよ デモ隊集めにツール悪用 横浜APECで警察当局
8月3日7時56分配信 産経新聞

 横浜市で11月に開催されるアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議の警備で、警察当局はミニブログ「ツイッター」への警戒を強めている。携帯電話から瞬時に不特定多数に情報を発信できる機能が、デモ隊の集結などに利用される可能性があるからだ。海外では実際、デモ隊がツイッターを使って連絡を取り合っていたケースが確認されており、警察当局は各種団体関係者のブログの捕捉に神経をとがらせている。

 ツイッターは、パソコンや携帯電話から140字までの「つぶやき」を投稿できる簡易型のブログ。このブログをフォロー(登録)しておけば、新しい投稿を瞬時に受信できるほか、フォローしていなくてもキーワード検索すればすぐに閲覧ができる。

 警察庁によると、APECでは、反グローバリズム勢力のほか、反捕鯨国などに対する右派系市民グループのデモ活動が想定されている。こうしたメンバーが警官隊と衝突した際、ツイッターで情報を発信し、仲間を呼び寄せる可能性があるという。

 また、開催地の横浜は交通の便がよいため、デモ隊と関係ない一般市民が、ツイッターの検索などで得た情報を基に現場に駆けつけ、さらなる混乱を招く恐れも指摘されている。

 カナダ・トロントで今年6月に開催されたG20(20カ国・地域首脳会談)では、反グローバリズム勢力ら約1万人が抗議行動を実施。一部が商店のガラスを割ったり警察車両に放火したりするなど暴徒化し、約900人が身柄を拘束された。この際、デモ参加者らがツイッターを無線機代わりにして連絡を取り合う姿が何度も確認されていた。

 警察当局はこうした実態を踏まえ、抗議行動に参加する可能性のある団体関係者や、騒動が起きた際にあおるような行動をとりそうな関係者がツイッターを開設していないかチェック。会議開催中に仲間を集めるような投稿がされた場合は、警備部隊を瞬時に派遣するなどの対策を検討している。

 警察庁幹部は「日本の国際会議ではこれまで大きな抗議活動はなかった。しかし今回は、直前に韓国でG20サミットが開催されるため、日本と韓国をパックにしてヨーロッパなどから多数の反グローバリズム勢力が訪れる可能性がある。万全の警備態勢を敷きたい」としている。

【用語解説】反グローバリズム勢力

 市場経済原理が世界的に広がり地球規模での貿易が促進されることで、貧富の差の拡大や環境破壊などさまざまな社会問題が発生すると主張し、サミットなど世界各地の大規模な国際会議で抗議活動を行っている。最近では、欧米を中心にデモ隊が暴徒化し警官隊と衝突するケースが相次いでおり、警察当局が警戒を強めている。

 全く持ってくだらない記事だと思う。報道機関は、ただ警察の発表を垂れ流すことが職務では決してないはずだ。

 僕の意見は簡潔に、以下の通り。

1、デモを企画し、人を集めること、そこに参加することは誰にも譲れない正当な行為である。その際にネット上のツールを用いることは「ツール悪用」でもなんでもない。

2、G8・G20などの資本主義(新自由主義)グローバリゼーションを推進させる集まりは、民主主義の原則を破壊するような、批判されて然るべき会合である。

3、暴徒」という言葉は、一定の原則(非暴力直接行動など)を守りつつ表現活動を行う集団にはあてはまらない。一方、無原則に逮捕・拘留を行う警察の態度こそ「暴徒」と呼ぶにふさわしいように思える。

 この記事の内容は要するにこういうことだ。「公安警察という最低の組織が、こそこそやっていたことを堂々とすることにした」。それ以上でもそれ以下でもない。

 APECが来るのが楽しみだ。心から歓迎したいと思う。ようこそAPEC。

(うわ、しくじった。上の動画。ブログの埋め込みだと字幕が表示されません。youtubeのページで直接見ると字幕がつきます。携帯からだとどっちにしろ見れないかも。それから、僕はこの動画にあるようなテロリストは支持しません。繰り返すけれど、非暴力が原則なのです)

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2010年7月 6日 (火)

就職留年7万9000人…いっそ反乱起せばいいじゃんw

 なんだか今の大学制度やら就職制度やらの歪みを象徴するような記事を見つけたので、転載してみる。

就職留年7万9000人、大卒予定7人に1人
2010年7月6日03時08分  読売新聞

 卒業年限を迎えながら留年する学生が全国の大学で少なくとも7万9000人いると推計されることが、読売新聞の「大学の実力」調査で明らかになった。

 根強い企業の「新卒一括採用」を背景に、就職が決まらず翌年に再び「新卒」として就職活動(就活)に臨む学生が急増している。卒業予定者数は約56万8000人で、7人に1人は留年している計算になり、就職戦線のさらなる激化を招いている。就職留年の実態が具体的に明らかになったのは初めて。

 「大学の実力」調査は、全国の国公私立4年制大学(通信制などを除く)735校を対象に2年前から実施。3回目の今年は、就職支援の取り組みを中心に卒業者数や就職者数など約50項目を尋ね、約80%の589校が回答した。その中で、卒業年次に在籍する卒業予定者と、実際の卒業者との差が、2009年度は約7万9000人に上ることが判明。この差について主な20大学で追跡調査した。

 この結果、〈1〉退学・留学・死亡など留年以外の理由がほとんどない〈2〉細かい実態は不明だが、留年者のほとんどは就職活動の不調が理由と見られる〈3〉成績不良による留年は3年次までに集中し、卒業年次では例外的――などの回答が得られ、約7万9000人のほぼすべてが就職留年者である可能性が極めて高いことが分かった。「大学の実力」調査の回答率(8割)から単純計算すると、就職留年者の総数は約10万人に上る可能性もある。

 就職の実態については毎年4月1日時点で国が推計値を出しており、今年は就職率91・8%と発表している。だが、この推計は、就職を希望した卒業者を対象に調べたもの。留年者は、調査対象に入っておらず、数もこれまで未把握だった。

 ◆卒業者含め「浪人」11万人

 国の調査では、約3万1000人が、就職が決まらないまま卒業している。今回、明らかになった留年者約7万9000人を合わせると就職浪人は約11万人となり、その分、就職戦線が激化している計算になる。

 大学の中には、留年者の学費を一部免除するなど、対策を講じるところも出ているが、大半の大学では、就職留年の詳しい実態をつかんでいない。在籍学生数が学部定員の一定割合を超えると補助金カットなどのペナルティーが科されることもあり、対策を実施しているのは一部の大学に限定されている。

 今月3日、東京の私立大学が開いた企業合同セミナーに、この春希望する会社に入れず留年した文学部4年の男子学生(24)の姿があった。今年も既に20社の選考を受けたが、内々定はまだ一つもない。2日前には家電メーカーに最終面接で落とされた。「厳しい。最後まで行ったのに……」と肩を落としていた。

 ◇就活=就職活動を縮めた最近の呼び方。一般的に3年生の10月ごろ、就職情報サイトで志望企業に登録して始まり、4年生の4月1日以降に本格化する選考・内定で終わる。この間、学生は、企業の説明会への出席やOB訪問で、志望企業を絞り込む。
(2010年7月6日03時08分  読売新聞)

 なんてろくでもないニュースだろうか。いや、ろくでもないのはニュースの内容であって、ニュース自体ではないのだけど。いや、でもニュース自体もひどいかw

 そもそも新卒一括採用などという、日本の伝統wが問題なのに、それについての批判が新聞やテレビなどではほとんど全く取り上げられないのがひどい。この本文にも、さらっと

>根強い企業の「新卒一括採用」を背景に

などと書いてあるが、その企業の中には新聞などのメディアもしっかり含まれているはずである(もちろん、企業ごとに違うとは思うけれど)。それを棚に上げて、澄ました顔で「こういうことが起こってるみたいだよー」と言われても、なんだかしっくりこない。「他人事でいい気なもんですね」と皮肉の一つでも言いたくなる。

 もう、こんな内容について、「だから就活はひどいんだ」なんて取り上げる気はしないけど、でも一つだけ言っておくと、これは実感としてもよく分かる話だなと思った。何せ僕のまわりでも、「就職が決まらなかったりして留年」みたいな人はとても多いからだ。別に何にも珍しくない。「就職が決まらないから留年」とか「休学」とかいうのはよく聞く話だ。

 たぶん、これに加えて「就職がままならないから、とりあえず(大学院)進学」という人を加えたら、かなりの数字になるんじゃないかと思う。

 

 日本の企業が「新卒一括採用」なんていうふざけた制度を維持して、採用数を絞ったりということを当たり前にやっているのか僕にはよく分からないし、そんなものを押し付けられて黙っている若者もよく分からない。若者は雇用の調整弁じゃない。「やつらの論理」を押し付けられなければいけない理由はどこにもない。

 ということで、そんなふざけた状況にカウンターパンチをかますことをまた考えている。僕は、今年の11月23日(勤労感謝の日)にも就活に異議申し立てをするデモを行う予定である。去年は二箇所だけだったけど、今年は4、5箇所ぐらいで同時にできるんじゃないかと画策中。反乱の波が大きくなるのを見るのは楽しいw

 

 別にデモが万能だという気はさらさらないし、それ以外の手法も積極的に行っていくべきだと思う。「デモって違和感が…」と(食わず嫌いで)敬遠する人は、何か別のやり方をやったらいいと思う。とにかく重要なのは、こんなふざけた状況を押し付けられて、黙っていていいのかということだ。

 

 日本人は問題に直面しても声を上げないで、「ただ黙って耐え忍ぶ」ことを美徳だとしている節があるけれど、そんなものはろくでもない自己満足に過ぎない。黙っていたところで誰にも気付いてくれないし、権利は行使の中にしか存在しない。物分りがよすぎるのも考えものだ。

 就職留年することを決めた人が7万9000人もいることが分かったのだから、「せっかくだし一斉行動を起こしたらいいじゃない」などと思ってしまう。道路を埋め尽くすデモ隊とか、想像しただけで嬉しくなってしまうw きっと、こんな制度の上で安穏としているやつらをビビらせることはそんなに難しくないと思う。

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2010年6月29日 (火)

「フツーの仕事がしたい」上映会やります@北大

Photo

 今度の木曜日のイベントの告知でござる。何のイベントかというと、映画の上映会。こういうのはあんまり北大ではないので楽しみだね。上映されるのは「フツーの仕事がしたい」というドキュメンタリー。以下は、「フツーの仕事がしたい」のオフィシャルブログからの引用。

<北海道><自主上映>
上映会場:北海道大学人文・社会科学総合教育研究棟・2階・W203室 
2010/7/1(木)18:30開場/18:45開演
料金:無料
主催:「フツーの仕事がしたい」の普及がしたい会・北大支部
上映後、神沼公三郎教授(北大教職員組合執行委員長)と
土屋監督とのトーク有り。

北海道大学での上映が決定しました!
学生・教職員の有志の皆さまにより「フツーの仕事がしたい」の普及がしたい会・北大支部が結成され、上映会を企画していただきました。ありがとうございます。
昨年の札幌・シアターキノでの上映より約1年ぶり。
札幌での上映です!

 中身は見てもらえば早いのだけど、映画のあらすじは以下のような感じ(これもオフィシャルブログからの引用)。


皆倉信和さん(36歳)は、根っからの車好き。
高校卒業後、運送関係の仕事ばかりを転々とし、現在はセメント輸送運転手として働いている。
しかし、月552時間にも及ぶ労働時間ゆえ、家に帰れない日々が続き、心体ともにボロボロな状態。 「会社が赤字だから」と賃金も一方的に下がった。
生活に限界を感じた皆倉さんは、藁にもすがる思いで、ユニオン(労働組合)の扉を叩く。
ところが彼を待っていたのは、会社ぐるみのユニオン脱退工作だった。
生き残るための闘いが、否が応でも始まった

 ここ最近、派遣労働などの劣悪な労働環境についてクローズアップされることが増えてきたけれど、その現場に密着して労働争議を記録した映像と言うのはあまり聞いた(見た)ことがない。たぶん普通は映像にされないものなんだろう。

「フツーの仕事がしたい」 ・・・

状況の差こそあれ、心のなかでそうつぶやいたことのある人は多いだろう。
本作は、数値的にみれば明らかに「フツー」ではない労働環境 に身をおく主人公が、労働組合の力を借りて、「フツーの仕事」を獲得する過程を描くドキュメンタリーである。
この主人公の労働状況は特別 ひどいケースでありながらも、どこを切っても、いまこの社会を生きる自分につながっていると思わせる。

彼の口から
「この業界では、フツーだと思っていた。」
「(運転は) 好きなことだから仕方がない・・。」というような言葉が飛び出すとき、観る者は彼の問題をぐっと身近に感じるはずである。
もし、あなたが毎日の暮らしに追われ、自分の労働環境について立ち止まり考えたこともなかったとしたら・・・。

この映画体験は、おそらく自分がより良い状態で働き生きるための大きなヒントになるかもしれない。

 働くことの何たるかを考える上で、たぶん参考になるものだと思う。見たら見たで暗くなるかもわからんけど、虚飾ばっかりの企業宣伝を見て「わーいこの会社すてきー☆」とか言って、就活に挑むよりかはよっぽどマシな心の準備ができるだろう。まぁとにかく見てみたらいいと思うよ。

 個人的には朝日新聞の記事(竹信三恵子氏の書いた記事)で取り上げられているのを見て「あーこれ面白そうだなー見たい!」と前々から思っていて、「土屋監督を呼んで上映会やるか…」などと考えていた。そこでちょうどよく今回の上映会の話を聞いたので、「行くしかない!」となったのだ(だから僕はこの企画には直接噛んではいない。知り合いの人が関わっているけど)

 入場無料だし、お時間のある人はどうぞ。

 <追記!>

 土屋監督のインタビュー記事を発見したので、参考までに。

JANJAN NEWS記事 映画「フツーの仕事がしたい」で考える“労働”――土屋監督インタビュー

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2010年5月11日 (火)

窮屈な大学なんかクソくらえ

 世の中では色んな話が刻々と移り変わっていくわけだけど、僕はわりと愚直に一つのことについて考え続けたりしていて、取り留めのないことを書いてみる。

 僕が大学に入学してから学んだことは、色々あるのだけど、一つ挙げるとすると、「与えられるルールを相対化して見る視点」というものではないかと思う。それはもちろん授業のみから得られるものではなく、あくまで「実践」を通してである。それは「現場」と言い換えてもいいかもしれない。

 

 実践、もしくは現場というのは、要するに机の前に座って誰かが書いた書物を読むだけで満足せず、実際にその問題の起こっている現場に出向いたり、問題とみなした事柄の解決のために行動すること、、考えること、ということである。僕は、なぜだかこの「実践」というやつにとても興味がある。たぶん、高校生ぐらいの時に小難しい概念をこねくり回していたわりには、あまり世の中のことを分かっていなかったことに対する反省があるのかもしれない。

 別に、「理論が必要ない」とか「本を読んでもムダだ」なんていう気はないんだけど、ただ頭の中で考えただけで満足していたら、何にも意味ないじゃないかと思う。思想の中に世界があるのではなく、世界から思想が作られるのだから。

 ともかく重要なのは、人はそうした様々な実践を通してある種のしたたかさを学ぶということである。世の中の複雑な世界にぶつかって、いかに自分の理想とする社会を模索していくか。これは現場に出向いて考えないと分からない。

 だが、若者が様々なことに挑戦し、「実践」していくためには、条件が要る。ここではそれについて考えてみる。

 まず十分な時間。なにかにひたすら急かされている状態では、良いアイディアは生まれない。そのため、金銭的に絶望的な状況では、時間を奪われるためよくない。金もある程度は必要だ。

 しかし、もっと必要なのは仲間かもしれない。同じ趣味を持つ仲間は不可欠だ。彼らと出会うための場所と方法が手に入れられる状態が必要だ。

 次に自由に使える空間(スペース)と道具(ツール)。誰にも干渉されないで、集まり、騒ぎ、話し合い、そして実験できることは不可欠である。

 そして、何よりも大切なのは、「非常識」な逸脱行為や稚拙な試みを受け容れる寛容な「他者」の存在である。はじめから「非常識なことはするな」とかいうことを言われていたのでは、若者は萎縮し、そこからは何も生まれないだろう。お互いの行為を認め合い、寛容な視点で受け止めることは、他者の視点に怯えずに行動するためには重要である。それは別に何の規制もしなかったり、また甘やかすことではない。時には真摯に「叱る」ような態度もたぶん必要だろう。しかし、総合的には「後先を深く考えずに、自由なことをやってみろ!」という、懐の広い大人と子どもの存在が、創造的空間には欠かせないだろう。


 そのように考えてみると、大学というのは、様々な意味でこうした「実践」をするにふさわしい場所なのではないかと思う。大学生は、有り余る時間(場合によっては何年も在籍している)の中で、教室や研究室、キャンパスを自由に利用し、手足を自由に伸ばして想像し、創造することができる。そこは純粋な「他者」の空間でもなく、かといって、「常識」や「世間」のみがのさばる空間でもない。実践と言うのは、「実験」でもあるので、大学は実験室としてはまるでうってつけだという言い方ができるはずだ。

 

 いや、正確には「うってつけ『だった』」というべきか。いまや、大学はそうした空間ではなくなっている。

 

 まず、最近の大学は学生が色々なことを試すための自由を好ましいものと思っていない。大学がリベラルな空間だということを抜かす奴がいあるかもしれないが、それはウソだ。

 このブログでも詳しく書こうと思っていたのだが(僕の遅筆ぶりのせいで実現はしていない)、日本の大学(北大含む)は学生の自主的な活動や、政治活動、自治活動などを積極的に(時に消極的に)、様々な方法で押さえ込もうとしている

 学生の自主管理スペースは狭められ、講義以外で教室を使う手段は奪われたり隠されている。大学にとって「好ましくない」と見なされた活動(それは、思想的にラディカルだとしても、学問的な問題意識の延長線上にある可能性も高い)は、異物と見なされ、積極的に排除される。実際に、「就活くたばれデモ」に関する活動や、大麻問題研究会(あさけん)の両方とも、北大の教職員からしっかり妨害されている

 しかも、そうした排除は「キャンパスの改装」や「学内の学習環境の向上」などの「美しい建前」の裏で進行するのでタチが悪い。都市におけるジェントリフィケーションが野宿者(ホームレス)を排除していく過程と全く変わらない。表面的に「正論」を押し出して実行される規制に対しては、反論するのが難しい(反論すると悪者扱いされる)。その実態がどんなに悪質なものであっても、だ。

 結果として、学生は大学当局が「安心して放っておける活動」以外に時間を費やすというオプションを奪われている。大学にあるのは、社畜養成のために非常に都合のいい擬似軍隊(体育会系)だとか、毒のない文化系サークル、実践を伴わない机上の勉強、就活セミナー、「政治的でない」ボランティア活動。

 表面的には多様な選択肢があるが、実際はなんだか牙のない、炭酸の抜けたコーラのような活動だけだ。

 

 別に、政治的にラディカルなことこそが、大学に不可欠だといっているのではない。しかし、文化的な活動や政治的な活動が次々と湧き出てくるような環境でなければ生まれないものがあり、それこそが大学の知の源泉なのではないかと思うのだ。

 だから、新自由主義的な「大学改革」は、リベラルであるべきの大学の姿を変容させる。研究でも、企業活動でも、社会活動でも、必要なことは様々な実践によって培われるのだから、それを奪い去ることはある種の自殺行為だと僕は思う。

 頭がごちゃごちゃして、言いたいことの半分くらいしか書けなかったけれど、「いいこと」と「悪いこと」を一方的に峻別して、学生の活動をはじめから制限するような大学のあり方はクソくらえということだ。とにかく。


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2010年4月 8日 (木)

「私たちはここにいる!!」――今年の自由と生存の連帯メーデーのこと

 最近、なんだか景気が悪すぎる、と思う。

 いや、景気といっても、経済の話じゃない。経済の景気なんか、僕らの世代が生まれた時(バブル崩壊ぐらい)からいままでずっと変わってないといっても過言ではない。だから経済の景気なんて今に始まったことじゃない。

 問題は僕たちの気力のことである。経済が活発化していないからってへこたれてしまうなんて、そんな悲しいことは言いたくはないじゃないか。まぁ金がないと元気なくなるんだけどさ、でもなんか悔しいじゃない。できれば元気でいたい。

 いや、別にバリバリ企業で働いて過労死するような、そんな元気は要らないよねw そうではなくて、弱いもの同士でも集まって、なんとかやっていけるような、そんなエネルギーが必要なんじゃあなかろうかと思っていたりする。そういえば、東京で野宿者支援をしているNPOの「もやい」の名前の由来も、船が繋がって荒波を堪える、っていうような感じだし……とにかく、そんなイメージで「群れる」こと。繋がることが重要な気がする。ほっとくとそれぞれの人達が孤立してしまうような時代だからこそ。

 で、タイミングよく(?)そういうような趣旨のイベントがあるので、告知しておきます。興味のある人はどうぞ遊びに来てください(我ながら、なんて適当な前フリだww)

「私たちはここにいる!!自由と生存の連帯メーデー in 札幌 2010」

開催日:2010年4月29日(木曜日)
開催場所:大通公園西6丁目広場

 なんだか、最近せちがらい世の中になってます。

 テレビをつければ、暗いニュースがたくさん。やれ自殺者が10年連続3万人超えたとか、やれ大学生の就職内定率が氷河期並みだとか。格差に貧困、過労にうつ…「日本の将来はどうなるのよ…」なんて思う前に、自分の将来もどうなるかよくわかんない。
 数年前まで「戦後最長の景気回復が…」とか騒いでたのに(その割には何の実感も恩恵もなかった)、いまや「金融危機がきた」とか言って一気に暗いムードが広がってる。一体いつからこの世界はこんな息苦しいところになっちゃったの?!

 そんなやってられない空気をぶっとばすために、今年もやります!インディーズ・メーデー!「メーデー」というのは、元々は労働者の祭典…らしいんだけど、細かいことはどうでもいい!w 要は「この社会ってなんか生きづらい…」とか思っている人たちが、社会に対して自分たちの存在をアピールする、お祭りみたいなものだと思ってもらってOK。色んなマイノリティの人もそうでないひとも、大人も子どもも、どんな人でも歓迎!とにかく集まって、話し合って、騒いで、のんびりして、楽しみましょう。

 当日は、サウンドデモ、ステージライブなどなど、様々な企画を予定しています。堅苦しい集まりじゃないので、一人で部屋にこもって塞いでいるぐらいなら、外で一緒に声を上げるなんてどうでしょう?「この社会がこんなに生きづらいのは、私たちのせいじゃない!!」。そんな実感を持ってるのは、きっとあなただけじゃない!

 公式ブログ→http://maydaysapporo2010.blog118.fc2.com/

<<タイムスケジュール>>

11:00 コモンズ広場OPEN
   各団体アピール、ステージライブなど
14:15 サウンドデモ START
~15:15 サウンドデモ終了
   ~16:30 フリートーク
18:00 までに撤収
18:00 アフターパーティー START
   ~22:00 解散

上の時間は目安です。変更する場合がありますのでご注意ください

<<賛同人大募集!!>>

個人:1口1,000円 団体:1口3,000円
郵便振替:02720-8-84725
口座名義:自由と生存の連帯メーデーin札幌実行委員会
※通信欄に個人/団体のお名前、所属など(無くても結構です)、氏名公表の可否、連絡先、賛同金の口数をご記入ください。

主催:自由と生存の連帯メーデーin札幌2010実行委員会

問合せ先:〒003-0021 札幌市白石区栄通2丁目11-13 札幌働く人の家(鳥居)
TEL/FAX 011-859-2567
E-Mali
maydaysapporo2010@gmail.com

 前にもこのブログで書いたことがあるのだけど、数年ぐらい前から、インディーズ系メーデーとか、非正規メーデーとか呼ばれるものが日本で行われるようになってきている。

 これは何かって言うと、これまで労働者のアピールの場として日本で行われてきたメーデーというのは、企業の労働組合に加盟している人たちが主体となって行われてきたものだった。それはそれで別に意味がないわけではないんだけれど、最近はどんどん非正規労働者が増えたりしているのは周知のことで、それと同時に組合などに加盟しない人と言うのも増えてきた。しかし、既存の労働組合などはあまりそうした人々の問題には取り組まず、むしろ正社員の既得権を維持するために、低賃金などで会社の負担の少ない非正規労働者の導入に積極的な場合も多かった。

 ということで、「労働者の権利をまもれー」とかいうようなメーデーがあっても、多くの人はなんだかピンとこなくなっちゃたのである。「うーん、まず俺らの権利が守られてねーよなぁ」と。というわけで、「大手の労働組合ではなく、自分達の手で自分達のメーデーを」という動きが、非正規労働者など、従来の「労働者」像とは異なる人々の側から出てくるようになったのである。それがインディーズメーデーとか、非正規系メーデーとか呼ばれるものの大まかな概要。

 なんでそれが、「インディーズ」と呼ばれるかというと、よく音楽の業界でメジャーの会社以外のところでCDなどを出すミュージシャンが「インディーズ(自立系)」とか言われたりするけれど、多分、そこから取ったんだろうと思う(このへんは推測)。

 で、札幌では2年前からその取り組みが始まっていて、今年は三年目になる。 まぁ色々な人がこの企画に関わっていて、(僕もちゃっかり関わっているのだけど)、あーだこーだ言いながら、計画を進めているところ。楽しいけど、忙しくもあったり。

 で、このメーデーは具体的に「これを要求する」というものではないのだけど、一つ言えるのはタイトルにあるように、「自分達の存在をないがしろにするような言説に反対する」ということがあるのかもしれない。いや、そこまで堅くないかな?w ともかく、社会から「ダメ人間」などと見なされようとなんだろうと、「自分達はいま、ここで、しっかりと生きているんだぞ」ということを主張するのが大きな意味なんじゃないかなぁと思っている。 まぁあくまでゆるーい感じでね。

 札幌はやっぱり寒いし、雪降るしで、あんまりデモも一年中できるわけじゃないので、その分、デモれる時期には思う存分(?)やっとかないといけないんじゃないかなぁと思う。というかやりたい(デモって楽しいしw)。ちなみに北海道外の人には理解出来ないだろうけど、札幌市街の雪が完全に溶けるのは、今月の半ばかそれぐらいなので、春の訪れを実感するイベントとしても機能したら、なんか楽しいんじゃないかなーとか思ったりする。

 どうぞ、札幌にいる人は参加してくれると非常に嬉しいかぎり(「メーデーは参加できないけど、メッセージは寄せたい」という人や、「賛同金だけなら…」というナイスな人もいると嬉しいw 詳細は札幌メーデーのブログを参照のこと)。サウンドデモとかあるので、それぞれの関わり方で楽しめるんじゃないかしら。

 ちなみに、インディーズ・メーデーは全国(?)各地で、様々な団体によって開催されているので、自分の住んでいる地域で、参加するというのも全然アリだと思う。フリーター全般労組の園良太さんのブログには、全国のインディーズ・メーデーが一覧できるエントリーがあるので、ぜひ参考にしてくださいな。

 全国の春をゆるゆると盛り上げていきましょう。僕達の人生は僕達のものです。

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2010年3月27日 (土)

「頑張ることはそんなに自慢できることなのか」という問い。

 前回のエントリーで友人のレヴンのmixiの日記を本人の許可をとって転載したのだけど、僕が本当に転載したかったのは、前回載せたやつじゃなくて、こっちのやつだ。3月5日の日記。タイトルは「頑張ることはそんなに自慢できることなのか」。タイトルからして社会不適応者のにおいがするではないかw

 日本の労働を取り巻く現状について、「働かざるもの食うべからず」みたいな感情論を抜かすやつは多いけれど、この日記は適宜、関連書を引用しながら、そういう態度をしっかりと批判している。

 ちょっと長いけどいい文章なので、どうぞ。

 「頑張ってる」を盾にして威張ってる奴は、むかつくなあと前から思っていたんだけど、『魂の労働―ネオリベラリズムの権力論』(渋谷望・青土社・2003)という本を読んで、その「むかつく」が少しだけ憐憫に変わった。もちろん、「むかつく」のは変わらないけど。

 なんで「頑張ってる」を掲げてる人がむかつくのかと言うと、「お前が頑張ってるのは、社会のためとか世の中のためとか、そういう大層なものじゃなくて、『頑張ってる』に安住したいだけなんじゃないのか? 『頑張って』れば世の中を安心して歩いていけるからなんじゃないのか?」と思うから。だとしたら、その「頑張ってる」は威張れるものなんだろうか?と思うから。

 で、いちばん迷惑なのは、そういう人の多くが、社会構造的な理由で頑張れない人とか、市場経済下で働いて頑張ることに違和感を抱いて「頑張らない」人に敵意を向けることだ。彼らは「頑張らない」人を否定することで、「頑張ってる」自分を正当化して安心しようとする。実は、自分の「頑張ってる」が社会において特に重要なものではないと気づいてても、もしくは自分がどっかから搾取してるとうすうす気づいてても、やっぱりとりあえずは「頑張ってる」ほうが彼らにとっては「善」なのだ。

「ネオリベラリズムにおいては<怠慢>は罪である―それがポスト産業社会の現実である恒常的失業によるものであっても」
 
 しかし、『魂の労働』によると、「頑張ってる」人も時には自分に不安を覚えることもあるらしい。


「自分たちの労働には価値はなく、むしろ遊んでいる者の<労働>のほうに価値があるとしたら? 怠け者のほうが生産的であるとしたら? あるいは、サボリが能動的であるとしたら?」。


 著者によると、この不安を抑え込む役割を果たすのが、「勤勉を美徳とする労働倫理」だ。そして「勤勉な主体としての自己肯定は<怠惰>への道徳的攻撃によってはじめて可能となる」。

 このように「頑張ってる」人は怠惰な者・遊び人に対して敵意を向ける。が、心の隅で遊び人に憧れもする。なぜなら遊び人は自由に「自己実現」しているから。さらに言えば、「遊び」から新しい価値が生まれて富の源泉になることがままあるから(ただの「遊び」が後に商業的に成功したり芸術になることはけっこうある)。つまり、「遊ぶ者にこそ『自分のなしうることの果てまで進んでいく力』すなわち自己価値化のポテンシャルを有している」。


 企業はやたらと「自己実現」をすすめるけど、しょせん消費社会において優先されるのは消費者=お客様の欲望であって、労働者の自己実現ではない。もちろん「お客様につくすことが私の自己実現だ」という論理は成り立つかもしれないが・・・僕には悲しい自己正当化にしか聞こえない(ごくたまに正当化抜きで本当にそういうふうに考えてる善人もいるけど)。企業社会においては、自己による自己の評価ではなくて他者=お客様による評価が優先される。

「ニーチェが弱者とか奴隷とか呼ぶのは、最も弱い者ではなく、その固有の力がどのようなものであれ、自分のなし得ることから分離されている者のことである」

 ネオリベラリズムの権力者にとっては、今まで従順に「頑張って」、つまり市場のためにあくせく働いたり自己実現やスキルアップをしてくれていた人が、「怠け者」に憧れだすことは自分の足元を脅かすことにつながる。
 そこでこれを食い止める機能として、貧困者や生活保護者の存在がある。市場経済になじめない者には貧困という懲罰が速やかに行われる。「消費社会においては、消費のできない貧困者はその存在自体が欠陥であり罪悪」である。貧困者が見せしめとしての機能を果たす。
 貧困者・生活保護者の現実・市場経済から足を踏み外した者の悲惨な状況を見せ付けられた人は、今までどおり市場経済の中で「頑張っていく」道を選ぶ。

 以前、長時間働くことで生じる間接的な搾取、というような文脈で「自己実現をするなら資本主義経済の外でしてほしい」と言ったことがあるが、そもそも僕には顧客依存の企業で自己実現できるということに対して疑問だし、さらに言えば、企業の中で自己実現すること、働くことに対して過剰に夢を見るのは危険なことだと思う。

「日本では生存権に体現される<権利としての福祉>の認識がきわめて低い。日本では<人間としての権利>を実質的に保証するものは、法的な市民権というよりも、労働市場における地位、つまり企業社会における地位である。このような条件において、失業することは、つまり労働市場での価値を失い、そこから排除されることは、「ホームレス」化の危険にさらされることである―とくに排除の緩衝材である家族や親族がいない場合。そしていったんホームレスになった場合、ホームレスであることが人間としての尊厳の剥奪に直結する。このことは、たとえば、住まう場所がないゆえに就業できず、就業できないゆえに住まう場所が確保できないホームレスが経験する、あの悪循環に端的に示される。日本においては、失職、病弱、貧困が相互に強化しあい、人間性の条件をダイレクトに破壊すると考えることができる」

 生活保護を受ける人が180万人を突破した。mixiの日記では「自己責任だ」と非難する論調を多く見かける。貧困者を非難して、「頑張る」自分を肯定する。そのこと自体がネオリベラリズムを強化していく(ついでにこれは保守化にもつながる)。彼らは自分が市場経済から排除されたとき、競争に負けたとき(現状では絶対に誰かが負ける構造になっている)、それでも「自己責任」と認めるのか。

 誤解のないように付け加えておくと、僕はべつに頑張ることを否定してるわけではない。頑張ることをひけらかして自分を擁護する道具として使うことを否定してるだけです。

 

 特に付け加えることはないんだけど、ポストフォーディズムとグローバリゼーション、それから新自由主義の合わさった社会の問題点の一つを正しく指摘していると思う。お見事。

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