« えらそうにきこう | トップページ | 「頑張ることはそんなに自慢できることなのか」という問い。 »

2010年3月22日 (月)

「ぽじちぶ」とアウシュビッツ

 最近ツイッターでちょこちょこつぶやいているせいか知らないけれど、ブログの更新が滞ってしまっている。というか、パソコン自体を開くのがなんだか面倒くさい。ちょっと前は基本的に毎日開いては何かしらしていたのだけど、最近は2、3日に一回ということが珍しくなくなっている。ふと思うのだけど、ネットの情報というのは、膨大なものなので、ヘタをするとその情報の波にやられて疲れてしまうような気がする。情報との距離のとり方も一つのメディアリテラシーなんだろうかなぁと思う。

 まぁそんなことはどうでもいいのだけど、ブログを放置してしまうのもアレなので、中間策として人の書いた文章などを参考に載せてみようと思う。(考えてみたら、今まで書いたエントリーでも引用ってすごい多いんだよね。まぁブログなんてそんなものかもしれないけれど)

  以下は、僕の友人のレヴンというやつがmixiの日記で書いた文章。ブログなどに掲載すればいいのに、そういうことをしていないので、「もったいない」と思って本人の許可を取って、掲載することにした。この友人は僕と同じ年に北大に入学して、3年生を終えた後に休学したやつで、まぁニートの予備軍のようなヤツであるw  元々は文学マニアのような感じで狂ったように小説などを読み漁っていたのだが、社会の問題にも関心が沸いたのか、最近は「資本主義グローバリズム反対」みたいなことを言い出し、ますます社会不適応者への道を邁進している模様w 今は嫌々ながら就活に勤しんでいるところである。

 それで、以下の文章はそんな彼が今年の2月12日に書いた日記の引用である。タイトルは「ぽじちぶ」。

 ブータンでは国民の95%が「自分は幸福である」と感じているらしい。けっこうな国である(色々問題はあるらしいけど)。僕もブータンに生まれたかった。しかし、日本=先進国に生まれてしまった以上、つまり物質主義的な幸福観にどっぷり漬かってしまっている以上、おそらく僕はブータンの幸福には満足できないだろう。
 ややこしいことに、幸福は各人によって異なる。だいたい、世の中には幸福を第一の目的としている人ばかりではない気がする。「清貧譚」の主人公のように、幸福よりも自分の意地を貫くことに重きを置いている人はけっこうみかける。そしてその意地はチンケなものである場合が多い。だけど、収集したガラス玉を守ろうとするカラスみたいに、そのチンケな意地を手離すまいと必死になる。
 こういう人がいてもそれはそれでけっこうなのだが、チンケなガラス玉を集めることが美徳だという考えを他人に押し付けようとしだすとたちまち厄介な存在になる。

 日本人の美徳は辛い状況を打破することではなく、辛い状況の中でささやかな幸福を見つけることにある、というのはよく言われている。どんなに辛い状況でもそれを顔に出さずに元気で明るくあれ、というわけだ。
 そしてこの考えが長い時間をかけて浸透すると、辛い状況を辛い状況と認知すらできない人間ができあがるのではないか。こういう人間の性向を人はポジティブと呼ぶ。
 こういう人は強い人間ではあるかもしれないが、鈍感な人間でもある。自分の痛みに鈍感で、悪いことに、他人の痛みにも鈍感だ。「俺は頑張っている、だからお前も頑張れ」と平気で言う。「元気があればなんとかなる」と、元気があってもどうしようもない状況にある人に平気で言う。そしてこの「元気があればなんとかなる」という言葉をかけられた人が無垢であれば、その人は「こんなに私が辛く感じるのは、私のネガティブな心のせいなんだ。私もポジティブに生きていかなくては」と思い込んで自分を責めることになる。

 日本に蔓延しているこのようなポジティブは、はたして本当にポジティブと言えるのか? ずいぶん消極的なポジティブだ。気持ち悪い。この歪んだポジティブを僕は日本製のポジティブ、つまり「ぽじちぶ」と(勝手に)呼ぶことにした。音の響きがださくてよろしい。

「絶望の姿だけが、その人の本格的な正しい姿勢なのだ。それほど現代の構造は破滅的なのだ」と主張した金子光晴のような人間こそが本当の意味でポジティブな人間になれる可能性があると思う。

 就活をしているとぽじちぶ人間をよく見かける(企業側にも学生側にも)。日本は幸福な国ランキングでは下位(75位~90位)に甘んじているが、ぽじちぶ国ランキングでは上位に座を占めるかもしれない。

 彼は、話してみるとどうもマヌケな印象を与えるのだが(ちょっと言いすぎかw)、文章に関してはやはり色んなものを読み、自分でも色々書いているだけあって、センスがいいと思う。(もっと読みたければこちら

 で、なんでこの文章を載せたかと言うと、僕もこれに大いに同意するところがあったからだ。

 日本という国に生きる人にとって、なんだか名状しがたい絶望感が漂っているのは言うまでもない。もう何年連続で自殺者が3万人超になっているのか、もはや分からないが、ともかくこの閉塞感に関しては、幅広く共有されていると思う。実際に日常生活のストレスから精神的な疾患を抱えてしまう人も本当に多い(「リスカ=リストカット」だの「OD=オーバードーズ」だのといった言葉が、非日常的でないものとして聞こえてしまうほど、現代の若者の置かれている状況は悲惨だ)。

 にも関わらずこうした絶望への日本人の対処方法は非常にお粗末なものである。それは、上の文章にもあるとおり、「社会のせいにしても仕方ないんだから、自分の身は自分でなんとかしなさい」とか、「小さな幸せに目を向けなさい」などといって、問題から目を背けさせるというものだ。全く後ろ向きすぎる。いや、ある意味のポジティブさか。

 もちろん、直面している問題の種類にによっては「くよくよしててもしょうがないじゃん!」というのでも、十分アドバイスになるかもしれないが、それだけで全ての問題がクリアーできるわけではない。むしろ、内容によっては、余計に問題をこじらせ、肥大化させる可能性も十分にあるのである。そうした場合、「小さな幸せに目を向けて」などというのは、本当に罪の重い発言と言わざるを得ない。不満を口にすることを好ましくないとして禁じられたものは、よりいっそう自分の感情を抑圧することになるし、誰からも直視されず、解決を先送りされた問題は、より根を深く張り、さらなる絶望を醸成するだろう。

 だから、日本人の大好きな「不満を言わずに頑張ること」というのは、本当に問題だらけだということである。社会の問題を告発しないということは、その問題を垂れ流しているヤツの活動を消極的に肯定しているのだから。(別に具体例を出すまでもないけれど、一つ例を挙げれば、ワーキングプアとしてこき使われているフリーターがいたとして、彼が「不満を言っててもしょうがない」といって黙々と頑張ることは、経営者を喜ばせ、より増長させる態度だということだ)

 ちなみに、こうした価値観は「国民レベル」で愛されているせいか、小説や漫画、音楽なんかを見渡してみても、どうも同様の傾向が見られる。政治や社会の問題を直接的に描くことだけが芸術や文化の役目だとは決して思わないが、これだけ社会が閉塞感を抱えているときに、その問題の根幹を直視するものがろくにいないというのは、現実逃避と言われても仕方ないんじゃないだろうか。 フランクフルト学派の哲学者アドルノ(1903-1969)は「アウシュビッツの後に、詩を書くことは野蛮である」という言葉を遺したらしいが、これをまねて言えば、「金融危機の後に、個人の喜びに逃避するのは野蛮である」とでもなるかもしれない。(ちょっと苦しいか)

 もちろん、誰もが不満の声を上げられるわけではないというのも事実だし、声を上げたことですぐに問題が解決すると考えるほど、僕もオプティミストではない。しかし、それにしてももう少し日本人は「社会運動」というものを、積極的に評価してもいいんじゃないかと思うし、この社会を取り巻く構造的な問題に目を向けてもいいと思う。少なくともただじっと黙ってるよりも、気が晴れるのでは、と個人的には思う。

 どうでもいい参考に、田中ヤスタカのユニットcapsuleの曲「Sugarless Girl」の動画を。この曲好きなんだけど、僕が上で批判したようなことをまさに歌っているので、なんか気になるのだ。好きな曲ではあるんだけどね。(ハイクオリティとか書いてあるわりに音が飛んでいる箇所があるけど、ご愛嬌)

|

« えらそうにきこう | トップページ | 「頑張ることはそんなに自慢できることなのか」という問い。 »

時事的なこととか、政治的なこと」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「ぽじちぶ」とアウシュビッツ:

« えらそうにきこう | トップページ | 「頑張ることはそんなに自慢できることなのか」という問い。 »