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2010年3月27日 (土)

「頑張ることはそんなに自慢できることなのか」という問い。

 前回のエントリーで友人のレヴンのmixiの日記を本人の許可をとって転載したのだけど、僕が本当に転載したかったのは、前回載せたやつじゃなくて、こっちのやつだ。3月5日の日記。タイトルは「頑張ることはそんなに自慢できることなのか」。タイトルからして社会不適応者のにおいがするではないかw

 日本の労働を取り巻く現状について、「働かざるもの食うべからず」みたいな感情論を抜かすやつは多いけれど、この日記は適宜、関連書を引用しながら、そういう態度をしっかりと批判している。

 ちょっと長いけどいい文章なので、どうぞ。

 「頑張ってる」を盾にして威張ってる奴は、むかつくなあと前から思っていたんだけど、『魂の労働―ネオリベラリズムの権力論』(渋谷望・青土社・2003)という本を読んで、その「むかつく」が少しだけ憐憫に変わった。もちろん、「むかつく」のは変わらないけど。

 なんで「頑張ってる」を掲げてる人がむかつくのかと言うと、「お前が頑張ってるのは、社会のためとか世の中のためとか、そういう大層なものじゃなくて、『頑張ってる』に安住したいだけなんじゃないのか? 『頑張って』れば世の中を安心して歩いていけるからなんじゃないのか?」と思うから。だとしたら、その「頑張ってる」は威張れるものなんだろうか?と思うから。

 で、いちばん迷惑なのは、そういう人の多くが、社会構造的な理由で頑張れない人とか、市場経済下で働いて頑張ることに違和感を抱いて「頑張らない」人に敵意を向けることだ。彼らは「頑張らない」人を否定することで、「頑張ってる」自分を正当化して安心しようとする。実は、自分の「頑張ってる」が社会において特に重要なものではないと気づいてても、もしくは自分がどっかから搾取してるとうすうす気づいてても、やっぱりとりあえずは「頑張ってる」ほうが彼らにとっては「善」なのだ。

「ネオリベラリズムにおいては<怠慢>は罪である―それがポスト産業社会の現実である恒常的失業によるものであっても」
 
 しかし、『魂の労働』によると、「頑張ってる」人も時には自分に不安を覚えることもあるらしい。


「自分たちの労働には価値はなく、むしろ遊んでいる者の<労働>のほうに価値があるとしたら? 怠け者のほうが生産的であるとしたら? あるいは、サボリが能動的であるとしたら?」。


 著者によると、この不安を抑え込む役割を果たすのが、「勤勉を美徳とする労働倫理」だ。そして「勤勉な主体としての自己肯定は<怠惰>への道徳的攻撃によってはじめて可能となる」。

 このように「頑張ってる」人は怠惰な者・遊び人に対して敵意を向ける。が、心の隅で遊び人に憧れもする。なぜなら遊び人は自由に「自己実現」しているから。さらに言えば、「遊び」から新しい価値が生まれて富の源泉になることがままあるから(ただの「遊び」が後に商業的に成功したり芸術になることはけっこうある)。つまり、「遊ぶ者にこそ『自分のなしうることの果てまで進んでいく力』すなわち自己価値化のポテンシャルを有している」。


 企業はやたらと「自己実現」をすすめるけど、しょせん消費社会において優先されるのは消費者=お客様の欲望であって、労働者の自己実現ではない。もちろん「お客様につくすことが私の自己実現だ」という論理は成り立つかもしれないが・・・僕には悲しい自己正当化にしか聞こえない(ごくたまに正当化抜きで本当にそういうふうに考えてる善人もいるけど)。企業社会においては、自己による自己の評価ではなくて他者=お客様による評価が優先される。

「ニーチェが弱者とか奴隷とか呼ぶのは、最も弱い者ではなく、その固有の力がどのようなものであれ、自分のなし得ることから分離されている者のことである」

 ネオリベラリズムの権力者にとっては、今まで従順に「頑張って」、つまり市場のためにあくせく働いたり自己実現やスキルアップをしてくれていた人が、「怠け者」に憧れだすことは自分の足元を脅かすことにつながる。
 そこでこれを食い止める機能として、貧困者や生活保護者の存在がある。市場経済になじめない者には貧困という懲罰が速やかに行われる。「消費社会においては、消費のできない貧困者はその存在自体が欠陥であり罪悪」である。貧困者が見せしめとしての機能を果たす。
 貧困者・生活保護者の現実・市場経済から足を踏み外した者の悲惨な状況を見せ付けられた人は、今までどおり市場経済の中で「頑張っていく」道を選ぶ。

 以前、長時間働くことで生じる間接的な搾取、というような文脈で「自己実現をするなら資本主義経済の外でしてほしい」と言ったことがあるが、そもそも僕には顧客依存の企業で自己実現できるということに対して疑問だし、さらに言えば、企業の中で自己実現すること、働くことに対して過剰に夢を見るのは危険なことだと思う。

「日本では生存権に体現される<権利としての福祉>の認識がきわめて低い。日本では<人間としての権利>を実質的に保証するものは、法的な市民権というよりも、労働市場における地位、つまり企業社会における地位である。このような条件において、失業することは、つまり労働市場での価値を失い、そこから排除されることは、「ホームレス」化の危険にさらされることである―とくに排除の緩衝材である家族や親族がいない場合。そしていったんホームレスになった場合、ホームレスであることが人間としての尊厳の剥奪に直結する。このことは、たとえば、住まう場所がないゆえに就業できず、就業できないゆえに住まう場所が確保できないホームレスが経験する、あの悪循環に端的に示される。日本においては、失職、病弱、貧困が相互に強化しあい、人間性の条件をダイレクトに破壊すると考えることができる」

 生活保護を受ける人が180万人を突破した。mixiの日記では「自己責任だ」と非難する論調を多く見かける。貧困者を非難して、「頑張る」自分を肯定する。そのこと自体がネオリベラリズムを強化していく(ついでにこれは保守化にもつながる)。彼らは自分が市場経済から排除されたとき、競争に負けたとき(現状では絶対に誰かが負ける構造になっている)、それでも「自己責任」と認めるのか。

 誤解のないように付け加えておくと、僕はべつに頑張ることを否定してるわけではない。頑張ることをひけらかして自分を擁護する道具として使うことを否定してるだけです。

 

 特に付け加えることはないんだけど、ポストフォーディズムとグローバリゼーション、それから新自由主義の合わさった社会の問題点の一つを正しく指摘していると思う。お見事。

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コメント

新自由主義左派としては、新自由主義が色々と誤解されていて寂しい限りです。
新自由主義は、ニートからぽん引きまで迎え入れてくれる温かい体制なんですよw
経済活動さえしていれば、どんなダメ人間も肯定出来る、「精神論?なにそれ?」な思想です。
「不道徳教育」という、新自由主義のお笑い本がありますので、市場法則に抵抗のない人は読んでみて下さい。
(Amazonのレビューの人みたいに真面目に受け取ってはダメですw)


記事にあるのは、「努力カルト」ですね。
目標に向かって頑張る姿はカッコいいですけど、いつの間にか頑張ること自体が目標になってしまう。
末期になると頑張ることは尊いことで、頑張らない人間は悪魔の手先みたいな物言いになります。
ほとんど宗教。発言小町とか、何であんなに努力カルトが多いんだろう。

元々新自由主義の信条をあげるなら、効率化と合理性です。
一番相性が悪いものは、抑圧と非効率性で、例えば「便器を素手で磨かせる」w
人格を踏み躙る上に、会社の生産性に何の貢献もしませんよね。
新自由主義と努力カルトとは、全く相容れない思想です。

・市場原理主義(未発達な新自由主義)
・ネット右翼(小泉と麻生って全然違うと思うんだけど、郵政支持したネトウヨたちどうしたんだろう)
・滅私奉公の精神(「俺が苦労してるんだからお前も苦労しろ」みたいな足の引っ張り合い)

巷に多い新自由主義者(もしくは世間一般の新自由主義者のイメージ)は、新保守主義の畸形だと思います。
正直新自由主義者としては、新保守主義者とはあんまり一緒にされたくないw


新自由主義系の経済学者ハイエクによると、市場原理主義は新自由主義の初期段階だそうです。
市場は野放しにしておくと、格差が拡大し、既得権益者の独占が始まってしまう。
格差の拡大は社会不安を招き、独占は新規参入者を締め出して競争を阻む。
「自由と競争のために規制を設ける」「セーフティーネットの拡充」が新自由主義の発展型とのこと。


日本は労働時間が長いのに、一人当たりGDPはどんどん低下している。
何よりもまずここに注目しないといけないのに、無目的に頑張れ頑張れと尻を叩く。
経済産業省の産業構造ビジョンでも「日本は労働分配率は高いけど、企業価値が下がっている」と指摘されています。
何も考えさせずに馬車馬のようにこき使って、思考停止人間を大量生産した結果がこれです。
新自由主義の金科玉条であるイノベーションの育つ苗床を腐らせてしまった。


新自由主義にも、働き者に怠け者、市場原理寄りから社会主義寄りまで幅広くいます。
ただ誰もわけのわからない「努力カルト」は肯定しません。
若者が努力したくなる・努力すべき方向を指し示すのが、社会の上層部の役目じゃないですかね。
搾取され尽くした奴隷は、イノベーションも興せないし、新ビジネスに挑む気概も沸きません。

投稿: プー太郎 | 2010年4月10日 (土) 21時37分

≫プー太郎さん
 世間の捉える現代のネオリベの意味が当初のネオリベから変容してしまった、ということは、たしかに付け加えておくべきでした。私は当初のネオリベに関してはある程度肯定しています。つまり、石油危機で経済が停滞し、破綻しかけた旧来の福祉国家を建て直す、という文脈から登場したネオリベは肯定しているということです。福祉政策を維持するためには、自由主義的な政策が必要だ、という視点は「ある程度」肯定します。

 しかしネオリベの問題は、「効率性を上げ、経済を回して全体の富を増やし、それを低所得者に再配分することで生活保障がなされていく」という考え、つまり、「福祉政策の維持は、経済をどんどん速く回すことによってなされる」という考えへの過信でした。誤解を恐れずに言うと、効率性を上げることはある意味で簡単なことです。効率性を上げるには工夫や改革は必要ですが、それでも俯瞰してみると一方向にしか視野が向けられておらずず、大事なものを見失いがちです。
 その典型的な例として派遣労働制があげられます。派遣労働というのは、いつでも好きなときに労働力を調達できるという意味で、「効率性を上げて、経済を回す」という目的に対しては非常に合理的な制度です。しかし、派遣労働者は、低賃金で不安定な労働を強いられる。さらに、依拠すべきコミュニティもない。派遣労働先で承認されることもなく、「無縁社会」の奥底に放り投げられて、孤独に苦しむ。
 もちろんこのような孤独な状態は派遣労働者だけではなく、正社員にも起こり得る。
 つまり何が言いたいのかというと、「福祉」というのは貧乏人に金を渡して、セーフティネットを設けるだけでは不十分だという事です。「経済成長」をしていけば、それにしたがって福祉も向上し、人間は幸福になれる、という図式はもう時代遅れで、違う方策をとらなければならないということです。

投稿: 礼文 | 2010年4月13日 (火) 01時59分

>礼文さん

長文のレス、ありがとうございました。
なかなか現実だと込み入った思想や経済面の話ができないので、嬉しく思います。

派遣労働者問題はまったく礼文さんのおっしゃる通りで、
新自由主義は「企業と労働者は対等であり、互いに合意の上で雇用契約を結ぶ」という経済学上の原理に立ちすぎています。
労働力需要の高かった高度経済成長期でさえ、労働者は待遇改善を求めてストライキを起こしています。
労働力需要が低くなった現在では、鬱病や過労死を招くほどこき使われるか、社会参加を阻まれるという状態です。
さらにNEETという造語で、無職はやる気がないというようなイメージまでされている。
満足に働ける仕事が少ないという雇用問題を、自己責任という精神論に持ち込んだ経団連や市場原理主義者の罪は重いです。

現代の日本の労働環境は、ストの頻発した昭和中期と同じぐらいに悪いのでは?
なのに、全く社会を批判する声が上がらず、「お前が無能なのが悪い」と労働者同士で足を引っ張り合う始末です。
(そんな人たちには、海外ニート氏の「社畜のくせに経営者目線ww」という言葉を贈りたい笑)
そんな中、O瀧さんの就活くたばれデモは、胸のすく思いでした。

実社会では労働者は常に企業より弱く、対等ではない。
社会制度は、労働者を保護するように設計されるべきです。
新自由主義は、社会全体の倫理観が高いということを前提にしている部分があるでしょうね。
私は新自由主義の理念には共感していても、限界や問題点も感じています。


無縁社会については、単純に悪いとは言い切れないかな?と思います。
日本風の会社や地域社会などは、温情がある反面、風通しの悪い人間関係の温床もでもありました。
学生のいじめ問題も、小中高では起こるのに、大学になるとぴたりと止むのは人間関係が開放されるからです。
(大学生にも、サークルという狭いコミュニティでのいじめや、友達が作れず孤立して不登校になる問題もありますが)

無縁社会の原因は、私の意見では一度解体したコミュニティを、再構築出来なかったことだと思います。
あまり勉強していない分野なので的外れかもしれませんが、NPOや地域の集まり、インターネットがコミュニティの主体になってくるのではないかなあと、
個人的な願望もありますけど、新しい形のコミュニティはもっとのびのびしたものであって欲しいです。

投稿: プー太郎 | 2010年4月13日 (火) 19時25分

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