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2009年5月の記事

2009年5月29日 (金)

平和教育とファシズム→言論の自由について考える

先週、九州に旅行に行ってきた。

福岡空港に着陸、高速バスで福岡→長崎→熊本→鹿児島→宮崎→福岡という感じで、一周旅行。(本当は、九州の東側には高速道路が走っていないので、「一周」ではないけど、便宜上。しかし、ここでは深く触れないけれど、宮崎は民放も二局しかないし、電車も当てにならないし、そのまんま東が「どげんかせんといかん」というのはホントにそのとおりだと思う)

で、今回書くのは長崎について。 長崎を訪れるということで、当然のごとく平和記念公園などに行ってみた。だって僕は社会派(?)だし。

どうも陳腐に聞こえるところがあるけど、僕は戦争にはどうしたって反対である。「原爆とかもうないわー」ってな感じで、行こうと思った。

で、行ってみたんだけど、僕たちが行ったときには、どこかの修学旅行中の生徒だと思われる小学生たちが、あの平和記念公園のデカイ像(「毒杯を仰ぐソクラテス」みたいな格好してるやつ)の前で何かしていた。 説明するのは難しいのだけれど、生徒が整列して

「にどとせんそうはくりかえしません!」(代表の生徒)

「にどとせんそうはくりかえしません!」(生徒みんな)

とかやるタイプの式典のようなもの、といえばなんとなく分かってもらえるはず。

最後には、生徒が折ったと思われる千羽鶴が収められていた。おそらく、「平和教育」というようなタイトルのもとにやらされているのだろう。

でも、それを見て僕はなんだか違和感を感じた。

もっと言うと「薄気味悪い」と思った。 「平和は大切」と思っている僕がなんでそう感じたのか。資料館の展示品などを見ながら考えていた。

で、思ったのだが、僕は「平和教育」なるものの持つ「有無を言わせぬ圧力」のようなものが嫌いなのだと思う。いや、はっきり言って嫌いである。

どうも、ああした場では「戦争はイケマセン」式の(教科書的というか、お題目的というか)、いわば一種の刷り込みが行われているように思える。

理屈よりもとにかく「イケマセン」を押し付けられるような。

あまり深い知識のない僕が思うに、かつて戦争がこの国において起きてしまったことは、日本政府が強力な言論弾圧を行ったこととは無縁ではないだろう。「戦争反対」と叫んだり、軍部の方法を批判するものは、「国賊」などと呼ばれ牢につながれた。

そして、そうした状況を栄養にして、ファシズムは育つ。つまり、「自分の思ったことを正直に言えない」というのは非常に危険なのだ。

平和教育も同じなのだ。

つまり、「平和」という一つの答えを先に用意していて、そこに到達することを「正解」とするような、圧力的なものとなりうるという意味で、「戦争賛美」と変わらぬ息苦しさを僕は感じてしまうのだ。

だって、ひどい戦争体験者の話を聞いた後に生まれる重苦しい空気は耐え難いものがあるじゃないか!

だから、おそらく学校などでの教育では、「平和が大切」とまでは言わなくてもいいのではないか、と僕は思う。つまり、「戦争でこんなことがありました」ということだけを生徒に伝え、あとは生徒がひとりひとり考えるのがいいのではないだろうか。少なくとも僕はそれがいいと思う。

また、こういう問題は、その「答え」(到達点)に到達するまでの道筋に葛藤があればあるほど、その「答え」の深みが増すだろうことも間違いない。 僕は、色々な問題に関して自分の意見を持っている(と自分ではある程度思っている)けれども、それとは逆の立場の考えを持っている人の意見を封じ込めたいとは思わない。

世の中には逆の意見もある方がよっぽど健全である(ただし意見が対立したときは「敬意を持って」叩き潰させてもらう。当然だ)。 簡単に言えば、「言論の自由」のあるべき姿は僕の中ではそういうものだと思っている。

最近、どうも政府批判をすると逮捕されたりする、ということが増えているようなので、ちょっと警戒しないといけないんじゃないだろうか、と思っている。

麻生内閣打倒を目指す「ないかくだとう実行委員」の動画。

明らかに主張の内容によって警察にマークされて、解散させられてる。

警察の「逮捕するよ?」という発言は、明らかに恐喝!

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2009年5月26日 (火)

圧倒的な暴力と感情

- ちょっと話題になっていた「性暴力ゲーム」について、思うところを書こうと思って、ネットを徘徊していたら、こんなページ(→性暴力サバイバー用ひとりごと(レス無し)掲示板)を発見してしまった。

女性よりも男性、一度は見ておいたほうがよろしい。

こういう問題に明らかになるように、事実の冷静な記述は実際に被害にあった人の心境を表現しきれない。その場合は、文章自体は断片的でも、心情を正確に吐露したものの方が当事者の「実感」が強く伝わってくる。

だから、過去に起きた出来事の理解のためには、事実の整理だけでは不十分で、当事者の実感を知るということが不可欠なのだ。 そんなことを最近、思う。

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2009年5月25日 (月)

なんでも民営化すれば良くなると思った大間違い---『ルポ貧困大国アメリカ』

ルポ 貧困大国アメリカ (岩波新書) Book ルポ 貧困大国アメリカ (岩波新書)

著者:堤 未果
販売元:岩波書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 この本は、レーガン政権以降に始まった新自由主義(いわゆる「ネオリベ」)政策がアメリカという国にいかなる影響を与えたのか、学校、医療、災害救助、軍隊などの観点から、多くの証言を元に明らかにしている。 

 新自由主義とは、いわゆる「小さな政府」路線をとる政策を指し、そこでは公的な支出の削減を徹底するために、公営の事業を民営化したり、福祉や医療など、社会保障を縮小することがよしとされる。

 本書によると、新自由主義的な政策は、一部の富裕層を除いて、多くの中流以下の人々を貧困層へと転落させてしまったのだという。あらゆる場面において、民営化が進んだ社会では、その組織が本来提供するべきサービスよりも、そのサービス提供にかかるコストを削減することが最優先されてしまう。

 そのため、医療保険会社は様々な口実を使って患者に保険金を支払うことを避け、災害救助を行う会社は災害が起こっても救助を行わない。 

 こうした流れによって得をするのは、一部の富裕層であり、大半の人々はその恩恵にあずかることができず、ちょっとしたつまずきからいとも簡単に経済難民となってしまうのである。そして、そうした人々に「救いの手」を指しのべる(ほとんど唯一の)存在が軍隊なのである。

 軍のリクルーターは言葉巧みに経済的に下位にある人々に軍隊に入るように勧める。入隊を勧められた人々の多くは、現在困窮状態にあるか、もしくは将来、成功できる展望のない「オチコボレ」高校生など。生活に希望のない彼らに選択肢はあまりない。既にどん底にある人々にとって軍のリクルーターの持ちかける条件は夢のようなものに聞こえるのだ。しかし、その先に待っているのは、事前説明とは大きくかけ離れた悲惨な戦場での勤務なのである。

 著者の主張は、本文で引用される人々の証言によって明白である。それは、ルイジアナ州で発生したハリケーンによって水没したニューオリオンズの被害者の言葉に端的に表れている。

 

「国民の命に関わる部分を民間に委託するのは間違いです。国家が国民に責任を持つべきエリアを民営化させては絶対にいけなかったのです」

 この本は、帯に「他人事ではない。格差社会の果て」とあるとおり、日本に住む人々にとっても他人事ではない。日本でも、中曽根時代の国鉄の民営化から小泉による郵政民営化まで「小さな政府」への移行は進み、市場原理に基づいて動く社会は格差を生み出し続けている。

 そして同時に、「大量生産・大量消費」「安ければ安いほどいい」といった、私たちの社会に浸透しきった価値観は、無慈悲な市場原理(と、それに基づいて経営を行う企業)を支持することになっているのだという事実を深く認識しなければいけないだろう。

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2009年5月15日 (金)

「自転車は車道を」の矛盾

自転車に関する批判が、どうも多いような気がする。

新聞などを読んでいると、投書などで

「歩道を歩いているときに、自転車にぶつかられたが、当てた本人は謝りもしないで走り去った」

「歩道を走る自転車のマナーが悪い」

的な内容をよく見かける。

実際、確かに歩道を歩いていると歩行者を省みない運転をする自転車利用者は少なくない。人がたくさん歩いている道に減速せずに近づき、ベルをならして、人を散らすということも少なくない。

こうした乗り方には、確かに問題がある。そもそも歩道は歩行者優先のものだからである。僕も、自転車がわりと好きな人間なので、歩道を暴走する自転車は、同じ自転車乗りとして恥ずかしく思う。

しかし、そのような「自転車の暴走」をどのように改善するかを考えたとき、その解決は一筋縄ではいかない。

まずそもそも自転車はどこを走るべき乗り物なのか。

日本の道路使用に関する法律(道路交通法)には自転車は「軽車両」として、車道を走ることになっている。つまり、基本的には、通常の自動車やバイクなどと同様であり、交通標識などにも従う必要がある、ということである。

なので、これを根拠に「そもそも自転車は車道を走るべきであり、歩道を走るな」といった批判があるのだが、しかし実際には車道を走らず、歩道を利用して自転車に乗っている人は少なくない(もちろん歩道でも自転車での走行可の場所もあるが、それは今回取り上げない)。

なぜ車道を走らないのか。

それは車道が歩道よりも圧倒的に危険だからである。

自転車で車道を走ったことのある人ならば分かると思うが、日本の道路というのは基本的に「車のもの」として存在している。たとえば、道路には自転車が走るスペースは用意されていない(欧米では自転車道というのが用意されているのが普通)。

よく路側帯と縁石の内側を自転車が走るスペースであると勘違いしている人がいるが、それは間違いで、正確には路側帯上か、もしくは車道の左側(つまり路側帯のちょっと右側)が自転車の走行するべき場所である。もちろん、物理的には路側帯と縁石の間を走ることはできるが、そこは割れたガラスの破片など、パンクの原因になるようなものが多く、現実的な選択肢とはいえない。

また、同時に問題なのはそうした自転車が走るスペースが確保されてないにも関わらず、「自転車は車道を走るものだ」という認識が、自動車ドライバーに欠けていることである(厳密には欠けている人が多い、ということだが)。

そのため自動車ドライバーの中には自転車が車道を走っているのを見ると、無理に追い越したり、クラクションをならしたり、最悪なドライバーだと窓から罵声(「自転車が車道を走ってるんじゃねえ!」)を浴びせるということさえあるのである。

よく「自転車の暴走」が危険視されるが、実際には車の方がよっぽど暴走していると僕は思っている。(「自転車の暴走」に関して、歩行者へのテレビインタビューなどで「歩道を歩いていて、自転車による身の危険を感じたことがあるか」と聞くことがあるが、自転車を愛好している人間からすれば、「自転車に乗って車道を走っているときに、『死ぬかも』と思わないことはない」という感じである。

日本人は、どうも「車優先」というのが体に染み付いているようで困るが、実際に歩道を歩いていて自転車によって怪我した人の数と、車道を走っていて自動車にひき殺された人の数を比較して欲しい。どっちが危険かは言うまでもない)

だから、自転車というのは基本的には日本においては冷遇されているといえるし、もっと言うと「差別されている」のである。

また、矛盾はそれだけではない。

先に述べたように、「自転車は車道走行が原則」であり、その際には自転車は道路標識などのルールに従う必要がある。しかし、自転車に乗るためには何の免許もいらないのである。

これは実は大きな問題である。

普通、原動機付き自転車でもバイクでも自動車でも、車道を走るためには免許が必要で、その免許取得のためには、道路標識などの交通ルールを理解しなくてはいけない。だから、逆に言えばそうした交通ルールを理解できないものは、道路を走ることはできないのである。

しかし、自転車はそうではない。自転車の利用は、自転車に乗ることができる全てのものに許されている。それは同時に、「交通標識が分からなくても、車道を走っていい」ということをも意味する。 これは恐ろしいことではないだろうか。

もちろん、自動車などの免許をすでに持っている人ならば、同様のルールに従えばいいだけである。しかし、自転車に乗っている人のすべてが車やバイクの免許を持っているとは限らない。小学生や、中学生など、自転車をよく利用する多くの人々はそうしたルールを知らない(もしくは十分には知らない)可能性が高い。 実際、僕も自転車に懲りだした大学2年生のころ、自転車の本に「自転車は二段階右折をする」と書いてあったが、免許を持っている友人に聞くまで、その意味するところは分からなかったし、通常の道路標識の意味などは全然分からなかった(今でも分からないことだらけである)。

僕は、これは日本の交通事情における、大きな問題だと考える。おそらく、車やバイクを運転する人々の頭の中には、「車道を走っている人は、運転の基本的なルールが分かっている」という暗黙の了解があるはずである。しかし、それがあてはまらない(かもしれない)人々が、実際に車道を走っているのである。 このように、自転車の現状に関しては、法律と現実の間に非常に大きな壁がある。

では、これをどのように改善するか。

まず、簡単なところでは、自転車の歩道走行を許可するということである。これは、現状を認めるということになるが、同時にあくまで歩道は歩行者優先であり、人が多い場所では、自転車のドライバーは降りて歩く、ということを徹底させるべきである。

もっと大きな変化を目指すのであれば、「自転車は車道を走る」という法律的な原則を徹底するということが望ましい。そして、その際は「自転車優先」ということを広めることが大切である。また、自転車自体を免許制にしてもいいかもしれない。「自転車は車道を走るものだ」という認識が、ルールとして徹底されれば、それに従わざるを得なくなる。車もそれを認めざるをえなくなるだろう。

さらに、理想としては、車道内に自転車専用のレーンを設けるか、もしくはまったく別の自転車道を積極的に整備していくということである。 エコロジーが強調される今の時代において、自転車ほど環境保護に貢献する乗り物はないはずである。「セグウェイが公道を走れるように」などという頭のおかしい議論を行う前に、自転車を普及させることを、日本人は考えるべきであろう。

参考

「軽車両と道交法」 http://www9.plala.or.jp/hiyotrio/newpage040.htm

自転車Q&A 道路交通法関連」

http://www.bicycle-file.com/jm_q&a_1.htm

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2009年5月14日 (木)

誰が格差を広げたのか--小泉を支持した人々について

現在、日本の社会はこれまでにない格差社会になってきている、とちまたでは言われている。

「派遣切り」によって、一気に職と住を失い、路上生活に転落する人々がいる一方で、大金を手に入れ、安穏と暮らす人々がいる。昨年末、ニュースなどで連日報道された「年越し派遣村」の様子は、金融危機などによって、いかに日本という国(政府や行政、そして企業が)が弱者に対して冷酷であるということを象徴的に示していた。

こうした状況にあって、積極的に新自由主義的政策を導入し、社会を「改革」した人々が批判の矢面に立たされるようになってきている。

その対象は、いわゆる「小泉改革」に関わった人々であり、その中心にいるのは、もちろん小泉純一郎・元首相と、竹中平蔵・元郵政民営化担当大臣である。

批判というのは、例えば「規制緩和が不安定な労働環境を生み出した」とか「社会保障費削減によって、障害者や病気になったものの生活が苦しくなった」とかいったということである。

そして、おそらくその批判自体は間違っていないと思う。こうした批判について、僕は大いに賛成する。 僕が、野宿者(ホームレス)の支援活動をしていて感じるのは、「当たり前に生活したい」と望んで、精一杯の努力をしても、それが叶わずに路上生活という状態に転落する人々がいるということである。それは、「自己責任」であるとか、「努力不足(甘えている)」といった言葉では片付けられないような、社会全体の抱える問題である。(「自己責任論」を信奉する人々の腹の立つところは、生活に困窮した人々が少しでも仕事を選ぶと「えり好みしている」というくせに、別の場面では「派遣という不安定な働き方を選んだこと自体が、自己責任だ」などということで、当事者の置かれた事情の複雑さを何も理解しないで吐かれる言葉に、現実的な意味は何もない。つまり、「現場を知らないくせに、人を傷つける言葉を偉そうに言わないでほしい」ということである)

だから、僕としては小泉や竹中のような人間が、今でもテレビや新聞などのメディアに堂々と露出していることが、正直なところ許せない、という感情がある。(構造改革の必要を積極的に提言し、「小泉改革」にも大きな影響を及ぼした経済学者の中谷巌は、その著書『資本主義はなぜ自壊したのか』において、「新自由主義は間違いであった」と「転向」して話題を呼んだ)

しかし、ではなぜ彼がそうした弱者切捨ての政策を推進しながらも、3度も政権を握ることができたのか。それは、単純にいって「国民が彼を支持したから」ということに尽きる。 僕の父は神奈川県で医師をしているのだが、小泉が郵政選挙に打って出たときに、「こんな弱者切り捨ての政策を進める小泉を支持するとしたら、日本の国民はおしまいだ」とうなだれていた。

父は、小泉内閣の「弱者切り捨てにつながる」として社会保障費削減に兼ねてから批判的だったのである。

しかし、選挙の結果は自民党296議席と歴史に残るほどの大勝となってしまった。 もちろん、その原因は単純ではない。よく言われているように、選挙の様子を面白おかしく報道したメディアの責任は計り知れないし、それを利用した小泉の戦略の巧みさもある。また、「既得権益にしがみつく抵抗勢力との戦い」といったフレーズに、金にまみれた汚い政治との決別を予感させるものがあったのは事実である。

しかし、である。

やはりこの国が民主主義国家としてやっている以上は、その選択の責任は国民に返ってくるのは当然である。ジャーナリストの魚住昭のように、選挙前から小泉の「改革」がどのような結果を招くかを危惧する声は間違いなくあった。

だから、「自己責任」という言葉は非常に嫌いではあるが、この状況に国民は責任をもたざるをえない。ここで「責任がない」というのであれば、それはまさに戦後の「無責任の体系」と変わらない状況である。どんな失敗をしても、「仕方なかったのだ」といっておしまいになってしまうだけであまりに前進がない。

日本の政治腐敗が指摘されることは多く、そのため政治不信に陥る人々は多い。しかし、翻って考えてみるべきである。 かれら政治家を選ぶ国民はどれだけ賢いのか、と。 自分がその政党の主張を支持したにもかかわらず、それを棚上げにして「格差が広がった」というのはあまりに無責任である(同じように、ブッシュを二度も選んだアメリカ国民は大いに反省すべきである)。

小泉・元首相は、次回の衆院選不出馬を決めているが、後継者として次男の小泉進次郎を選んでいる。政敵を「既得権益にしがみつく抵抗勢力」として批判した小泉だが、実はその「世襲」という権益を自分も享受し、また息子にも渡そうとしているのである(小泉家は純一郎の祖父の代から政治家)。

国民が、小泉自身の政策の結果や不誠実さを真剣に考えれば、後継者の進次郎は当選しないはずである。もし、ここで彼が当選してしまうとしたら、本当に日本の政治に未来はないだろう。

(非常に偉そうな文章で恐縮である。こんなことを書いたら「お前は誰に投票したんだ」と問われそうだが、僕自身は現在21歳で、今まで成人してから選挙を体験したことがない。郵政選挙のときは、17歳。だから偉そうなことがいえるのだが、この文章は半分は自分に「勉強しろ」と言い聞かせている内容だということは弁解しておく)

参考

魚住昭 『国家とメディア』(2006年、ちくま文庫) →著者が政治について書いた文章をまとめたもので、郵政選挙前から小泉がペテン師であることや、小泉の政策の中身について批判的に書いている。メディアリテラシーについて学ぶためにオススメ。

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甲本ヒロトの弔辞

きよしろー、えー、きよーしろう!

 あなたとの思い出に、ろくなものはございません。突然呼び出して、知らない歌を歌わせたり。なんだか吹きにくいキーのハーモニカを吹かせてみたり。レコーディングの作業中にトンチンカンなアドバイスばっかり連発するもんで、レコーディングが滞り、その度にわれわれは聞こえないふりをするので必死でした。

 でも今思えば、全部冗談だったんだよな。うーん。今日も「清志郎どんな格好してた?」って知り合いに聞いたら、「ステージ衣装のまま寝転がってたよ」っていうもんだから、「そうか、じゃあおれも革ジャン着ていくか」って来たら、なんか、浮いてるし。…清志郎のまねをすれば、浮くのは当然。でもあなたは、ステージの上はすごく似合ってたよ。ステージの上の人だったんだな。

 一番最近会ったのは、去年の11月。それは、ザ・フーの来日公演で、武道館の。その時、あなたは客席の人でした。ステージの上ではなくて。沢山の人が清志郎にあこがれるように、あなたはロックンロールにあこがれていました。僕もそうです。 

そんな一観客としての観客同士の共感を感じ、とても身近に感じた直後、あなたはポケットから何かを出されて、それは、業界のコネをフルに生かした、戦利品とでも言いましょうか、ピート・タウンゼントの使用するギターのピックでした。ちっともあなたは観客席の1人じゃなかった。ぼくがあまりにもうらやましそうにしているので、2枚あったそのうちの1つを僕にくれました。…こっちじゃねえや(ポケットの中を探る)…これだ。ピート・タウンゼントが使ってたピックです。

これはもう、返さなくていいね。納めます。ありがとう。一生忘れないよ。短いかもしれないけど一生忘れないよ。それで、ありがとうを言いに来たんです。 数々の冗談、ありがとう。いまいち笑えなかったけど。はは…。今日もそうだよ、ひどいよ、この冗談は。うん…。なるべく笑うよ。そんでね、ありがとうを言いにきました。清志郎、ありがとう。それから後ろ向きになっちゃってるけど、清志郎を支えてくれたスタッフの皆さん、家族の皆さん、親族の皆さん、友人の皆さん、最高のロックンロールを支えてくれた皆さん。どうもありがとう。どうもありがとう。 

で、あと1つ残るのは、今日もたくさん外で待っているあなたのファンです。彼らに、ありがとうは僕は言いません。僕もその1人だからです。それはあなたが言ってください。どうもありがとう、ありがとう!(遺影に右手を振る)

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2009年5月11日 (月)

忌野清志郎が死んで

「ひどい冗談だ」 清志郎さん葬儀で甲本ヒロトさんらが弔辞2009年5月9日 「産経ニュース」

2日にがん性リンパ管症のため58歳で死去したロック歌手、忌野清志郎さんの本葬となる「葬儀式」が9日、東京・南青山の青山葬儀所で開かれた。葬儀には清志郎さんゆかりの人や一般のファンらが参列。反骨精神と豊かな人間性で新境地を開いた“ロックの神様”との別れを惜しんだ。 祭壇には、背広にネクタイ姿でニッコリとほほえむ清志郎さんの遺影が飾られ、正午、にぎやかなバンド演奏のファンファーレで幕を開けた。

 最初に弔辞を読んだ俳優の竹中直人さんは「忌野清志郎さんが死んだなんて絶対に受け入れることはできません。でも本当なんですよね。みんな清志郎さんが大好きです。僕は忌野清志郎と友達なんだぜって自慢したいです」と語った。 続いて弔辞に立った女優の大竹しのぶさんは「あなたが言っていた愛と平和の日が一日も早く来るようにリードしていってください。清志郎さん、本当にお疲れさまでした。本当に本当にありがとう」。 

またロック歌手の甲本ヒロトさんは「清志郎、あなたとの思い出にろくなものはございません。突然呼び出して知らない歌を歌わせたり、今思えば冗談だったんだ。今日もそうだ。ひどいよ、この冗談は」と別れの言葉を述べた。

 会場の外では「本日は忌野清志郎青山ロックンロールショーにお越しいただき、ありがとうございます」とのアナウンスが流れ、大きな歓声に包まれた。その後、「宝くじは買わない」「い・け・な・いルージュマジック」などの代表曲が流れ、さながらライブ会場のようだった

キヨシローが死んだというのを新聞で読んで、なんというかやるせない気持ちを感じた。

おおげさに言えば、一つの時代が終わったような…。

あまり多くの曲を聴いたことはないけれど、結構過激なメッセージを込めた曲が多いということで、注目はしていた。

例えば、『言論の自由』という曲では「本当の事なんか言えない 言えば殺される」といったことを歌っていたし、自分の曲がラジオで放送禁止になったことに抗議して、生放送のテレビ番組(「夜のヒットスタジオ」)で、FM東京を批判する曲(確か「腐ったラジオ」とか「政治家の手先」とか罵った挙句に「オマンコ野郎」とか言ってた気がする)をゲリラ的に演奏していた。

あまり、メッセージ性を持ち出さない日本のロックシーンにおいて、貴重な存在だったのに…

月並みだけど、なんだか信じられない感じだ。

ところで、いい動画見つけてしまったので、見てみてください。キヨシローとヒロトのセッションです…泣けてくる

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2009年5月 1日 (金)

自由と生存のメーデーが札幌で…!!!

4月29日(というのはこれを書いている時点で二日前)、札幌市において「自由と生存のメーデー」が行われたということをふとしたきっかけで知って愕然とした。

「そんなものがあるなんて知っていたら、間違いなく参加していたのに…」という感じで結構ショックだった。

と、書いても分からない人がいるかもしれない…

「自由と生存のメーデー」とは何か。

というか、なんでデモ(メーデー)に参加したいというのはどういうことなのか。

話は数日前にさかのぼる。
僕は自己紹介でも書いたように、休学しているので時間がある。
それで、バカな友達と「何かひと暴れしたいなー」ということを話していたのだが、そこで出た一案が「とりあえずデモしますかー」というものだった。

デモというと

「〇〇はんたーい」

式の堅いイメージがあるけれど、最近はでっかいアンプやDJブースを軽トラックに積んで、爆音を流しながら街を練り歩く「サウンドデモ」などが流行っている。
何らかの主義主張がある場合もあるけど、どちらかというと街を舞台に面白いことを好き勝手やろうという感じが強い。

個人的に面白いと思うデモは、主に「インディーズ系メーデー」だ。
「インディーズ系」というのは、既存の労働組合(連合や全労連)以外の団体が主体となって行われるデモのことで、レコード業界などで使われる「インディーズ」と基本的には同じだ。

普通だったら公道を好き勝手に使うことはできないんだけど、デモだと合法的にそれができる、ということで、一部のデモは結構注目されているのだ。
ということで、僕と友達は「デモをやろう」みたいな話をしていて、同時に「そうした面白いデモがあれば行ってみよう」と思っていた。

しかし、まさかこんな近いうちにあるとは思っていなかった…!
「自由と生存のメーデー」は昨年も札幌で開催され、雨宮処凛などが参加して大盛り上がりだったようだ。

僕は、去年はまだまともな青年だったので、「おいおいデモってそんな左翼みたいな…」とか思っていたんだけど、後になって後悔していたのだ。

「行けばよかった…」と。

「去年、行っておけばよかった」と後悔していたのが、昨日おとといぐらい。で、その後悔していたときに、ちょうど今年の「メーデー」が札幌で行われていた、という悪夢。

うーん、ちゃんと調べておけばよかった…
しかも、この「メーデー」は全国規模で行われるのだが、(東京など)他の地域で行われる日にちは、僕が札幌に留まっている間…悲しすぎる。。。

今回はあきらめるしかないけど、こんな集まりがあったら誰か教えてほしい。
こうしたバカなデモを開催する人としては松本哉がよくしられてて、彼の情報に関しては、「貧乏人ファイトクラブ」なる(ふざけた)メーリングリストで知ることが出来ているのだが、ちょっと今回のは誤算だった。

あー、悔やまれる。
次に賭けよう…

あ、ちなみに僕と友人が話していたのは「俺ら、プロテストする内容がないから、『プロテストする内容をよこせデモ』しようぜ」という馬鹿な内容だった。
賛同者は連絡ください!

参考:

〇「自由と生存のメーデー」関連
「自由と生存のメーデー」ブログ
 http://mayday2009.alt-server.org/
「自由と生存のメーデー2008」ようつべ(動画)
 http://www.youtube.com/watch?v=QbF4TehSS7I&feature=related
「つながりひろがり、わたしたちは増殖する!」(「自由と生存のメーデー札幌」の実行委員のブログ)
 http://mayday-sapporo.blogspot.com/

〇松本哉関連
「素人の乱」(松本哉の経営するリサイクルショップ)HP
 http://trio4.nobody.jp/keita/
amazonの『貧乏人の逆襲』(松本哉著)のページ
 http://www.amazon.co.jp/%E8%B2%A7%E4%B9%8F%E4%BA%BA%E3%81%AE%E9%80%86%E8%A5%B2-%E2%80%95%E3%82%BF%E3%83%80%E3%81%A7%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B%E6%96%B9%E6%B3%95-%E6%9D%BE%E6%9C%AC-%E5%93%89/dp/4480877924

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